大川小学校事件の事案の概要
滝口〔弁〕 では、事案の概要について説明いただけますか。
渡邉〔弁〕 はい。まず、当日の経緯について説明します。ご存じのとおり、東日本大震災は2011年3月11日14時46分に発生しています。その際、児童は一次避難として机の下に隠れた後、二次避難として小学校の校庭に避難しました。
滝口〔弁〕 校庭に避難した後はどこかに移動したのでしょうか。
渡邉〔弁〕 その後、学校では、宮城県に大津波警報が発生したことなどを受け、教職員間で校庭からさらに別の場所へと三次避難を行うべきかどうか、また、行うとすればどの場所が適当か、といった協議検討を15時30分頃まで行いました。
滝口〔弁〕 協議検討の結果、どのような避難方針になったのでしょうか。
渡邉〔弁〕 協議の結果、北上川右岸にあり、校庭よりも高台となっている三角地帯への避難を決断し、校庭に残っていた児童及び教職員は徒歩で三角地帯へと移動を始めました。
滝口〔弁〕 避難には成功したのでしょうか。
渡邉〔弁〕 いいえ。津波は、北上川の堤防を越流した津波と、その後に陸上を遡上して来襲した津波の両方があったようです。教職員と児童がこれに巻き込まれ、多数の方が亡くなる結果となりました。本当に残念なことです。
江口元気〔議〕 犠牲者の方はどの程度いたのですか?
渡邉〔弁〕 三角地帯へ移動した76人の児童のうち、72人が亡くなりました。教職員は10人が亡くなり、当日避難した教職員で生き残ったのは1人のみです。
大川小学校の避難経路
第一審と控訴審の結論が異なる理由
加藤拓磨〔議〕 裁判ではどのような点が争いとなったのですか?
渡邉〔弁〕 本件で、大きく問題として取り上げられた争点は、二つあります。一つ目が、第一審の仙台地裁で認められた、いわゆる「現場過失」です。
加藤〔議〕 「現場過失」とは具体的にどういうことですか。
渡邉〔弁〕 地震の発生後の教職員の対応に過失があった、すなわち、個々の教職員について、地震発生後の津波に対する具体的危険の予見及びその可能性を前提として、児童らを安全な高所に避難誘導すべき義務を怠っていたとして、行政側の責任を認めたものです。
中村延子〔議〕 控訴審と第一審では結論が異なっていると聞いています。控訴審では、第一審と同じ判断枠組みをとらなかったのですか?
渡邉〔弁〕 はい。控訴審の仙台高裁では、第一審の仙台地裁の判断枠組みである「現場過失」の争点は取り上げず、学校の管理・運営に携わる者を「組織」でくくり、その構成員である公務員の過失を判断する、いわゆる「組織的過失」を認める判断枠組みをとりました。
中村〔議〕 「組織的過失」の判断枠組みではどのような判断になるのでしょうか。
渡邉〔弁〕 まず、市の教育委員会や大川小学校の校長等は、平時において事前に大川小学校の児童の生命、身体の安全を保護すべき義務(安全確保義務)を負っているとしました。その上で、今回のケースでいえば、大川小学校において策定する危機管理マニュアルの中で、事前に発生が想定されていた地震による津波から児童を安全に避難させるのに適した第三次避難場所を定め、かつ避難経路及び避難方法を記載する等して改訂すべき義務があったものと判断しました。その義務を怠ったという形で、過失を認めたのです。
滝口〔弁〕 危機管理マニュアルを改訂すべき義務というのは、どのような法的根拠をもとに認めたのでしょうか?
渡邉〔弁〕 学校保健安全法では、危険が発生したときに学校の職員がとるべき措置の具体的内容や手順を定めた対処要領を作成すべき旨を定めています。控訴審では、この公法上の義務をもとに、市教育委員会が危機管理マニュアルの作成・改訂作業の期限とした2010年4月末の時点で規範性を帯びることになったと判断しています。
逢坂巌〔学〕 津波によって大川小学校が被災する危険性については、そもそも予見可能だったのでしょうか。また、仮に被災する危険性を予見できたとしても、今回のような大津波では、児童が亡くなるという結果を回避することは難しかったのではないでしょうか。
渡邉〔弁〕 控訴審では、当時の宮城県防災会議が想定していた地震であっても、発生する津波によって大川小学校が被災する危険を予見することは十分可能であったとして、予見可能性を認めています。
上村遥奈〔弁〕 危険を予見できたからといって、結果を回避できるとは限らないのではないでしょうか。
渡邉〔弁〕 控訴審では、第三次避難場所を定め、さらに避難経路及び避難方法を記載した危機管理マニュアルを作成・改訂し、教職員が防災行政無線の広報を認識した直後に避難を開始していれば児童の死亡を回避することができたとして、因果関係を認めています。