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2014.11.10 政策研究

権利の上に眠るな~今振り返る市川房枝の取組とその現代的意義~

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 来年2015年は、日本女性の参政権が実現して70年の節目である。敗戦を経て1945年12月17日、衆議院議員選挙法が改正され、まず国政への男女平等参加が実現した。その権利の初行使は翌46年4月10日で、投票所への長蛇の列の中には紋付羽織姿の女性や、子どもの手を引く女性、食糧難のために「1票」を米や芋の「1俵」と勘違いした女性がいたという。また女性参政権獲得運動の中心的役割を果たしたあの市川房枝(1893~1981年)に至っては、戦後の混乱期で名簿漏れのために投票できず、その列を見守っていた……など、様々なエピソードが伝えられている。
 このときの選挙で39名(8.4%)の女性議員が誕生したが、数・割合ともにこれを上回ったのは2005年(43名、9.0%)、実に60年も要したことをご存じだろうか。さらに10年を経て2014年の現在は39名、8.1%と減少傾向にあり、列国議会同盟による国際比較では先進国の中で常に最下位に甘んじてきている。
 地方議会も、1946年の東京都制・府県制・市制・町村制の改正を経て、翌47年に行われた第1回統一地方選から70年近くたつが、女性議員はようやく11%台に達したところだ。そこで来年2015年の第18回統一地方選を視野に、市川房枝記念会女性と政治センターは今春から「女性を議会へ!全国キャラバン」を展開し、この活動をきっかけに、本誌で私たちの取組が3回連載で特集されることとなった。
 前号では、長崎(4月)、島根(5月)、石川(7月)へのキャラバンの模様や、当財団ならではの住民参加型選挙運動のツボ、議員活動を市川房枝政治参画フォーラムで学ぶ現・前議員が分担執筆した。
 今号は、五十嵐暁郎先生と筆者が執筆し、次号では島根キャラバンを共催していただいた毎熊浩一先生も執筆される予定である。ちなみに日本政治論が専門の五十嵐先生は、政治学者、故高畠通敏先生のご縁で財団の講師をお願いし、今回のキャラバンでも協力をしていただいている。
 前置きが長くなったが、本稿では、財団の創設者、市川房枝が生涯をかけて取り組んだ女性参政権運動と、その現代的意義、そして市川の志を引き継ぎ発展させてきた財団の諸活動についてお伝えしたい。

市川房枝の原点──向学心・向上心

 自伝の冒頭、市川は自分が生まれた1893年は「明治憲法公布4年後で、婦人の政治活動を禁止した集会及政社法公布3年後、日清戦争が始まる前年であった」と記している。木曽川に沿った濃尾平野の中心地、愛知県中島郡明知村(現一宮市)の農家の三女に生まれ、子どもたちの教育には熱心だが、かんしゃく持ちで妻に対しては暴君であった父と、字は読めないが記憶力抜群でやさしく、忍耐強かった母の姿を見て育った。
 小学校時代は勉強が嫌いで、学校をさぼることもあった。しかし、師範学校女子部を卒業したばかりの憧れの先生と出会ってからは勉学に励むようになり、畑や養蚕など家の仕事もよく手伝った。14歳のときには、当時在米中の兄を頼り、役場に単身渡米の渡航願を出しにいく行動派だったが、無謀な企ては許可されなかった。代用教員を経て師範学校に進み、3年生のときには級長に選ばれ、級友らと良妻賢母主義の校長に対して抗議のストライキも行った。当時の女子生徒らの青春群像は、永井愛作「見よ、飛行機の高く飛べるを」(1997年)に描かれ、今年も劇団青年座の創立60周年記念公演などで上演され続けている。
 卒業後は郷里の小学校教員となるが、大正デモクラシーに心を寄せ、向上心に燃える市川は熱心に講演会を聞き歩き、雑誌に「不徹底なる良妻賢母主義」なども投稿した。今年NHK連続テレビ小説「花子とアン」のヒロインで話題を呼んだ、後の村岡花子ともこの時期に出会った。読売新聞家庭欄への投書をきっかけに参加を勧められた、キリスト教夏期講習会(御殿場)でのことである。このように仕事以外の活動も増えて過労で倒れ、病気休職を機に教員を辞めて名古屋新聞記者になったが、1年後の1918年には上京。自分探しをする中で、当時“新しい女”といわれていた平塚らいてうと出会った。

「新婦人協会」「婦選獲得同盟」結成に参加

 2人の出会いは翌1919年、当時女性の集会・結社を禁じた治安警察法改正運動などのための「新婦人協会」結成へと発展し、1922年には治安警察法一部改正に成功して「女性の政談集会参加」が認められることとなった。市川はこの運動の途中、1921年に渡米し、ベビーシッターなどとして働きながら、女性参政権実現直後のアメリカで女性の政治教育、女性運動、労働運動などを学び、1924年1月、関東大震災から復興さなかの日本に帰国した。
 帰国後は、開設されたばかりのILO東京支局に就職。女性の坑内労働や深夜労働などの実態調査をする傍ら、同年暮れ、婦人参政権獲得期成同盟会(翌年、婦選獲得同盟に改称)の結成に参加し、仕事と運動の二足のわらじを履く生活となったが、ILOの仕事は自分でなくてもできると途中から半日勤務とし、1927年暮れに辞職した。

婦選なくして真の普選なし

 ILO辞職・婦選獲得運動専心の決意の背景には、1925年に男子の普通選挙法が公布され、次はいよいよ女子の選挙権・被選挙権の獲得をという、かつてない運動の高まりがあった。チラシに書かれた「婦選なくして真の普選なし」「与えよ一票婦人にも」には当時の女性たちの意気込みが感じられる。具体的な運動目標は、①政治結社への加入の自由を求める治安警察法の改正、②女性に公民権を与えるための市制・町村制の改正、③男性と同等の選挙権・被選挙権を与えるための衆議院議員選挙法の改正で、これら婦選3案の実現を求める対議会活動が繰り広げられることとなった。
 全国に婦選獲得同盟の支部がつくられ、他団体とも協力して議会への請願署名運動、首相はじめ大臣や議員へのロビーイングのほか、婦選に賛成する男性候補の選挙応援は女性の弁士が珍しかった時代、多くの聴衆を集めた。また、講演会、街頭でのビラまき、雑誌発行や、市川が吹き込んだ講話「婦選の話」のレコードは、婦選の普及に一役買った。各地への講演行脚などの様子は当時の新聞記事に見ることができる。
 この婦選3案は1925年3月、若手男性議員に働きかけて衆議院に上程、可決されたが、貴族院で審議未了。この日衆議院の傍聴席は約200人の女性が埋めた。翌日の新聞には、「婦人権拡張論者のきりょう紹介」として提案理由を説明した山口政二、内ヶ崎作三郎、松本君平、高橋熊次郎らをちゃかし、4議員の頭にリボンをつけた岡本一平の風刺漫画が掲載されるという時代だった。
 1930年4月、日本青年館で開かれた第1回全日本婦選大会には全国から約600人の女性が集まり、政友会総裁犬養毅らが祝辞を寄せた。♪同じく人なる我等女性 今こそ新たに試す力 いざいざ一つの生くる権利 政治の基礎にも強く立たん♪と、与謝野晶子作詞・山田耕筰作曲による「婦選の歌」も世界的なソプラノ歌手荻野綾子の独唱で披露された。
 この大会翌日の婦選獲得同盟第6回総会では、婦選3案を要求する理由を、①婦人及び子供に不利な法律制度を改廃し、福利を増進する、②政治と台所の関係を密接にして国民生活の安定を計り、自由幸福を増進する、③選挙を革正し、政治を清浄、公正な政治とする、④世界の平和を確保し、全人類の幸福を増進する、と掲げ、これを総会宣言として採択した。翌5月、婦人公民権案が衆議院可決、貴族院で審議未了となったが、2度までも衆議院で可決されたことで運動は勢いづく。そのような中、創立以来、会務理事を務めてきた市川は、この2か月後に総務理事に選出され、名実ともに同盟の看板となった。

戦時下の活動──国策協力は婦選の実践

 このように運動の高揚期を迎えていた矢先の1931年に満州事変が勃発し、さらに37年日中戦争、39年第2次世界大戦、41年太平洋戦争開戦へと時代は突き進んだ。全日本婦選大会も1937年、第7回が最終回となった。
 こういう時局であればなおのこと女性の政治参加が必要であると、ファッショ反対、戦争反対を表に裏に秘めながら、婦選獲得運動の一環として市政浄化や卸売市場改革、母性保護法・家事調停法制定などの運動を展開した。しかし、女性たちの高まる思いに反して運動は「冬の時代」を迎え、それは「咲きかけた花がむしりとられた」ようだったと、市川は後に自伝に記している。
 選挙粛正中央連盟評議員、国民精神総動員委員会幹事、大日本婦人会審議員、大日本言論報国会理事ほかを併任しながら、1940年に婦選獲得同盟解消を余儀なくされた後は、婦人時局研究会や婦人問題研究所などを拠点に、自主性を堅持しつつ、戦時下の政府の女性対策について提言をし続けた。
 国策への関与は、婦人運動を担ってきた者としてできる限り女性の要望を政策に反映させ、そのためには政策立案に女性が参加する必要があり、それは「婦選」の実践にほかならないという、苦渋の選択の結果であった。
 しかし敗戦を経て1947年、市川は戦中、大日本言論報国会理事であったことを理由に公職追放となり、講演、執筆などを含め一切の政治的活動を禁じられた。失意の生活は3年7か月続いた。

戦後──公職追放を経て活動の前線に復帰

 1950年追放解除後は、戦後いち早く立ち上げた新日本婦人同盟(現日本婦人有権者同盟)の会長に復帰して活動を再開した。52年には日米知的交流委員会の招きで渡米し、53年帰国後は東京地方区から無所属で参議院議員に当選。以後59年、65年と連続当選し、4度目の71年は落選。74年、80年は全国区から2位、続いて1位で当選した。
 市川の選挙は、「出たい人より出したい人」をスローガンに、推薦届出制による理想選挙方式で、選挙のたびに推薦会を立ち上げ、選挙費用も推し出したい人が持ち寄るという方式を6回貫いた。
 議員としては、平和憲法を守り、議会制民主政治を築くための二院制の確立、政治資金や選挙制度の改革、金権選挙の廃止、女性の地位向上などの問題に取り組んだ。5期25年間の国会質疑は232回を数え、これらは1992年、市川生誕100年記念事業として『市川房枝の全国会発言集』にまとめて刊行した。参議院会議録から採録したもので、発言の主要事項をキーワード化した索引も付し、テーマごとに通覧しやすいようにした。
 市川は戦前から女性団体を組織し、時に他団体と共同運動も組みながら対議会活動をしてきたが、自ら議員となっても運動をけん引し続けた。
 例えば、国連が提唱した1975年の「国際婦人年」には、実行委員長として超党派の全国組織女性団体・労組婦人部など41団体による国際婦人年日本大会を開催し、大会後は連絡会の世話人として連帯の絆を強めた。5年後の1980年には「国連婦人の10年中間年日本大会」を開催し、このときの最大のテーマは女性差別撤廃条約を批准することだった。男女雇用機会均等法や家庭科の男女共修、国籍法改正など、国内法を整備して批准するよう、市川は大会実行委員長として、また議員として政府に強く働きかけた。政府が批准したのは1985年、市川が亡くなって4年後だったが、憲法や法律だけでなく、さらに日本女性の権利を担保するものとして女性差別撤廃条約の批准は、晩年に最も力を入れた運動のひとつだった。その条約も万能ではなく、国連女性差別撤廃委員会からは日本政府に対し様々な是正勧告が出されているが、女性たちは差別撤廃委員会を傍聴し、意見を政府にも委員会にも提出するなど、新しい運動のよりどころとなるツールを得ることとなった。
 また航空機輸入疑惑をめぐるロッキード事件やグラマン事件など不祥事が後を絶たないことから、1979年には「汚職に関係した候補者に投票をしない運動をすすめる会(ストップ・ザ・汚職議員の会)」を女性・市民17団体で結成。市川は代表世話人として金権選挙を排除し、汚職政治家を追放する国民運動に浄財を募る募金広告を全国紙に、意見広告を地方紙に載せ、また汚職候補の選挙区に乗り込んだ。「今度来たら命をもらう」という脅迫電話もあったが、県警SPなどに守られながら、地元有権者に政治の入り口の選挙をきれいにすることがいかに大事かを訴えた(写真)。
 この運動は『ストップ・ザ・汚職議員!市民運動の記録』(新宿書房、1980年)に詳しいが、汚職関係候補6人のうち1人落選、残る5人も3人が前回より得票数を減らした。当時、朝日新聞の「声」欄には、募金広告を見て寄附をした人と思われる宮城県の男性から、次のような投書が載った。

小さな広告が自民党を圧倒
 松野頼三氏は落選した。田中角栄氏は、前回得票より、かなり減りました。さらに大きな成果は、自民党の安定多数確保に「待った」をかけたことです。
 身の危険をかえりみず、熊本県で青空演説を断行し、汚職議員追放と選挙浄化を訴えた市川房枝先生らの熱意が多くの人々に感銘を与えたのだと思います。あの小さな「ストップ・ザ・汚職議員」の募金状況報告では、寄付者の約60%が女性でしたから、やっぱり「天を支える半分の力は女性」ですね。
 政治の流れを変えるのは、私たちの1票の積み重ねであることを、しみじみ感じました。

 同様の運動は戦前もあった。1933年、東京市会選挙の際、婦選・市民6団体が東京婦人市政浄化連盟を結成した。当時ガス会社増資疑獄、市会議長選疑獄、墓地疑獄、市長選疑獄、社会局疑獄、財務局疑獄などに連座して起訴、収監されていた議員11人が立候補している状況に、「あなたの区には、被疑者が立候補している。掃き出せ、つき出せ、醜類を!!」と書いたチラシや、「市民は選ぶな醜類を 築け男女で大東京を」と書いた立て看板をつくり、チラシまきや演説会を行った。また市会議長選被疑者4人を訪ねて立候補辞退勧告状を手渡し、その他の7人には書留で郵送した。訪ねた4人のうち1人は自発的に立候補を辞退していたが、開票結果、残りの3人は全員落選、郵送した7人のうち3人も落選した。
 参政権を持たない女性たちが男性有権者、世論に訴え、間接的に選挙結果に影響を及ぼしたのである。当時から選挙の浄化は民主主義の基本として、市川にとって大きな課題であった。

「ストップ・ザ・汚職議員」の街頭演説(1979年9月15日、熊本市内)「ストップ・ザ・汚職議員」の街頭演説(1979年9月15日、熊本市内)

婦選会館を活動拠点に

 敗戦の翌1946年12月、女性参政権実現を記念して、東京・渋谷区の現在地に木造バラック平屋建ての「婦選会館」が建てられた。市川らが寄附を集めてつくったもので、婦人問題研究所の所有とし、新日本婦人同盟の事務所も置かれた。また戦中、都下川口村(現八王子市)に疎開させて戦火を免れた婦選獲得同盟の図書・資料を配架する図書室も設けた。
 その後1962年、老朽化した婦選会館を現在の地上3階・地下1階の鉄筋コンクリート造に改築し、婦人問題研究所は発展的に解消して、自治省認可の「財団法人婦選会館」となった。
 財団の寄附行為には、主たる目的として「女性の政治的教養の向上と、公明選挙、理想選挙の普及徹底を図り、日本の民主主義政治の基礎を築くとともに、女性問題、女性運動の調査研究を行い、日本女性の地位を向上せしめること」が掲げられた。これに基づいて女性への政治経済教室ほかの諸講座、女性問題・女性運動・女性団体の資料収集や調査研究、婦選図書室の公開、出版、国際交流ほかの事業が行われ、市川は初代理事長として1981年に亡くなるまで、会館運営の責任を持った。1983年には財団名を「市川房枝記念会」と改称し、婦選会館は建物名として残っている。
 財団は一昨年創立50周年を迎えたが、市川理事長亡き後の歴史の方が長くなったことは感慨深い。

婦人参政権獲得運動からのメッセージ

 1983年、市川房枝記念事業の一環として、婦選会館2階に常設の市川房枝記念展示室を設置した。2012年には60インチ大型モニターを入れて視聴覚コーナーを整備するなど、大幅な改装工事をしたが、生涯年譜をベースに、婦選獲得運動の史資料や遺品、写真パネルなどを該当する年代に展示し、「目で見る日本の婦人参政権獲得運動史」の構成、コンセプトは変わらない。
 昨年は神奈川県の男子校の高校3年生50人が見学に訪れ、今年は前述の劇団青年座の団員が上演を前に市川の実像を学ぶために来室した。このほか、全国から女性たちの国内研修や、タウンウォーキングのグループ、卒論準備のための学生や、歴史の授業準備のために訪れる教師など、国内外からの見学者が後を絶たない。
 展示ケースに陳列されている、当時の運動の請願書、チラシ、日記、書簡、新聞記事、自伝草稿や愛用した品々などには、時を経た原物ならではの迫力がある。
 見学者の感想文はHPでも紹介しているが、展示物や映像、音声などを通して市川という存在に触れた喜びや発見などが素直に記されている。「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」「権利の上に眠るな」という市川のメッセージに気づき、その感想を記す人も多い。
 前述した、婦選要求の目的4項目はパネルに体系化して展示室に張られている。
 その前に立つと、「婦選は鍵なり」すなわち、婦人参政権が平和で民主的な社会をつくる鍵であり、女性たちはその鍵を使って社会参加をしていってほしいという市川のメッセージが伝わってくる。

市川房枝の志を継承する「市川房枝記念会女性と政治センター」

 市川房枝記念会は2011年、財団名を「市川房枝記念会女性と政治センター」と再び改称し、さらに財団創立50周年を経て2013年4月1日より公益財団法人に移行した。名称の変遷はあるが、創設者市川房枝が掲げた理念を継承し、女性たちの政治教育の拠点であることは変わらない。以下、財団の特徴的な事業を紹介する。
① 政治参画フォーラム(政治教育・人材養成事業)
 財団創立以来、女性有権者のための一般的政治教育講座を開講してきた。しかし、各地の公民館や女性センターなどで学習の機会が増えてきたことから、1994年に「女性の政治参画センター」(現市川房枝政治参画フォーラム)を開設し、主として無所属女性地方議員の養成と政策研修に事業を特化してきた。初めて選挙に立候補する人向けの住民参加型選挙運動の実践的方法や自治体についての基本的学習、そして現職議員には教育、社会保障、財政を中心に折々の政策課題を取り上げ、専門家による講演、議員らの事例発表、討議、交流を行っている。
 現在は、参画フォーラムで学ぶ議員による企画運営委員会で現場ニーズを取り入れた企画を進め、今回の全国キャラバンにも委員有志が積極的に協力している。
 参画フォーラム開設以来、北欧中心のスタディツアーを4回実施してきたが、昨年は脱原発・政治教育・女性政策をテーマにドイツへのスタディツアーを行い、そのフォローアップとして今年度はドイツの政治教育を学ぶセミナーを開いた。
 また『市川房枝政治参画センターで学ぶ47人の挑戦』(2002年)、『議会はあなたを待っている』(2014年)には、それぞれの選挙運動と議会活動、選挙費用収支報告もレポートされ、『住民参加型選挙運動ハンドブック入門編』(2010年)と併せ、初めて選挙にチャレンジする人たちの参考テキストとなっている。
② ジェンダー平等政策サロン(政治教育・人材養成事業)
 財団名に「女性と政治センター」が付された2011年にワークショップ「ジェンダー平等政策をどうつくるか」を行い、翌年からジェンダー平等政策サロンが始まった。研究者や議員、市民、行政関係などの参加者が、ジェンダー平等に関わる新たな視点や男女共同参画・女性の政治参画を進めるための発信力を養い、交流する場となっている。
③ アーカイブズ(情報収集・保存・提供・発信事業)
 前述のように、財団が所蔵する戦前の婦選獲得同盟関係の膨大な史資料は、かつて「国民的遺産」であると国会図書館の関係者から評された一大史料群である。戦中、一部空襲で焼失したが、市川らは資料が入る「蔵」のある疎開先(都下川口村。現八王子市)を探し、数度にわたって運んだ。その結果、婦選獲得運動のほぼ全体像を見渡せる貴重なコレクションが残された。
 これらの保存と公開のために1997年度から本格的な史資料整備事業に着手し、2000年には約8万点をマイクロフィルム化し、内容細目のデータベースも完成した。その後もボランティアらの協力で整理作業は継続中だが、約7,000枚の写真もデータベース化され、オープンリールなどの音声テープのCD化作業も進行中である。
④ 『女性展望』(出版及び調査・研究事業)
 1954年に政治教育の一環として市川房枝が創刊した『女性展望』は、女性と政治を主要テーマにした雑誌である。世界の女性国会議員比率ランキングや国政選挙、統一地方選挙のたびに行う女性議員の進出状況調査などは定番記事として定評がある。折々の女性問題も取り上げ、女性地方議員や議会図書館などでも広く読まれている(年間6回・奇数月の15日発行/28~34頁/購読料3,800円/税・送料込み)。
 執筆者などをゲストに招く「女性展望カフェ」も好評である。
⑤ 女性と選挙の調査(出版及び調査・研究事業)
 女性議員の進出状況調査も当財団ならではの事業である。特に地方議会は1987年以降、4年ごとに統一地方選直後の全国一斉調査を行っている。調査結果は都道府県別・議会別・党派別や人口段階別・女性議員数別にまとめ、女性議員比率の全国ランキング、全女性議員氏名リストなども収載した資料集を毎回刊行している。
 前項のように、女性国会議員比率の国際比較も1989年以降手がけてきた。
⑥ 市川房枝研究会(出版及び調査・研究事業)
 市川房枝研究会(主任・伊藤康子)は2000年、女性史研究者を中心に、財団に所蔵する史資料も使って市川房枝の全体像を明らかにするために設置された。
 これまでの研究成果は『市川房枝の言説と活動 年表で検証する公職追放 1937~1950年』(2008年)、『市川房枝の言説と活動 年表でたどる婦人参政権運動 1893~1936年』(2013年)の2冊にまとめ、シンポジウムなどでも成果を発表してきた。現在は戦後の市川(1951~1981年)について取り組んでいる。
 3冊目の年表がまとまれば、生涯を概観する基礎研究としての第1期市川研究の所期の目的は達成される。第2期テーマは今後検討されることになるが、「市川房枝」の全体像の解明は日本の女性運動史、政治史研究の上でも重要なテーマであり、公益財団としてのミッションのひとつである。

2012年からは毎夏、「脱原発セミナー」を開催2012年からは毎夏、「脱原発セミナー」を開催

結びに代えて

 財団は創立以来、女性有権者の政治教育に取り組み、特にこの20年間は被選挙権の行使、女性地方議員の養成に力を入れてきた。そして今年、全国キャラバンで各地を訪ね、11月には青森を訪ねる予定だが、圧倒的多数の女性の意識が依然として「政治に向いていない」実態に改めて直面することとなった。その背景には何があるのか。突きつけられている課題は重いが、今後は学校教育や社会教育現場での政治教育の取組に期待するとともに、これらとの連携も含め、財団自体の事業も再構築する必要を痛感している。

久保公子(女性と政治センター事務局長)

この記事の著者

久保公子(女性と政治センター事務局長)

公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター事務局長・参画フォーラム担当理事 公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター事務局長・参画フォーラム担当理事、『女性展望』編集長。元市川房枝参議院議員秘書。秘書在職中の1976〜1977年、一時休職しアメリカのコロンビア大学で語学研修の傍ら、女性の選挙運動のボランティアや全米女性会議の取材などをする。1980年代から女性地方議員の全国調査などを手がける。『市川房枝集』解題(日本図書センター、1994年)、「女性議員は地方議会改革の担い手になれるか」大森彌編著『分権時代の首長と議会』(ぎょうせい、2000年)、「女性をもっと地方議会へ」WIN WIN編著、赤松良子監修『クオータ制の実現をめざす』(パド・ウィメンズ・オフィス、2013年)など。

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