戦後──公職追放を経て活動の前線に復帰
1950年追放解除後は、戦後いち早く立ち上げた新日本婦人同盟(現日本婦人有権者同盟)の会長に復帰して活動を再開した。52年には日米知的交流委員会の招きで渡米し、53年帰国後は東京地方区から無所属で参議院議員に当選。以後59年、65年と連続当選し、4度目の71年は落選。74年、80年は全国区から2位、続いて1位で当選した。
市川の選挙は、「出たい人より出したい人」をスローガンに、推薦届出制による理想選挙方式で、選挙のたびに推薦会を立ち上げ、選挙費用も推し出したい人が持ち寄るという方式を6回貫いた。
議員としては、平和憲法を守り、議会制民主政治を築くための二院制の確立、政治資金や選挙制度の改革、金権選挙の廃止、女性の地位向上などの問題に取り組んだ。5期25年間の国会質疑は232回を数え、これらは1992年、市川生誕100年記念事業として『市川房枝の全国会発言集』にまとめて刊行した。参議院会議録から採録したもので、発言の主要事項をキーワード化した索引も付し、テーマごとに通覧しやすいようにした。
市川は戦前から女性団体を組織し、時に他団体と共同運動も組みながら対議会活動をしてきたが、自ら議員となっても運動をけん引し続けた。
例えば、国連が提唱した1975年の「国際婦人年」には、実行委員長として超党派の全国組織女性団体・労組婦人部など41団体による国際婦人年日本大会を開催し、大会後は連絡会の世話人として連帯の絆を強めた。5年後の1980年には「国連婦人の10年中間年日本大会」を開催し、このときの最大のテーマは女性差別撤廃条約を批准することだった。男女雇用機会均等法や家庭科の男女共修、国籍法改正など、国内法を整備して批准するよう、市川は大会実行委員長として、また議員として政府に強く働きかけた。政府が批准したのは1985年、市川が亡くなって4年後だったが、憲法や法律だけでなく、さらに日本女性の権利を担保するものとして女性差別撤廃条約の批准は、晩年に最も力を入れた運動のひとつだった。その条約も万能ではなく、国連女性差別撤廃委員会からは日本政府に対し様々な是正勧告が出されているが、女性たちは差別撤廃委員会を傍聴し、意見を政府にも委員会にも提出するなど、新しい運動のよりどころとなるツールを得ることとなった。
また航空機輸入疑惑をめぐるロッキード事件やグラマン事件など不祥事が後を絶たないことから、1979年には「汚職に関係した候補者に投票をしない運動をすすめる会(ストップ・ザ・汚職議員の会)」を女性・市民17団体で結成。市川は代表世話人として金権選挙を排除し、汚職政治家を追放する国民運動に浄財を募る募金広告を全国紙に、意見広告を地方紙に載せ、また汚職候補の選挙区に乗り込んだ。「今度来たら命をもらう」という脅迫電話もあったが、県警SPなどに守られながら、地元有権者に政治の入り口の選挙をきれいにすることがいかに大事かを訴えた(写真)。
この運動は『ストップ・ザ・汚職議員!市民運動の記録』(新宿書房、1980年)に詳しいが、汚職関係候補6人のうち1人落選、残る5人も3人が前回より得票数を減らした。当時、朝日新聞の「声」欄には、募金広告を見て寄附をした人と思われる宮城県の男性から、次のような投書が載った。
小さな広告が自民党を圧倒
松野頼三氏は落選した。田中角栄氏は、前回得票より、かなり減りました。さらに大きな成果は、自民党の安定多数確保に「待った」をかけたことです。
身の危険をかえりみず、熊本県で青空演説を断行し、汚職議員追放と選挙浄化を訴えた市川房枝先生らの熱意が多くの人々に感銘を与えたのだと思います。あの小さな「ストップ・ザ・汚職議員」の募金状況報告では、寄付者の約60%が女性でしたから、やっぱり「天を支える半分の力は女性」ですね。
政治の流れを変えるのは、私たちの1票の積み重ねであることを、しみじみ感じました。
同様の運動は戦前もあった。1933年、東京市会選挙の際、婦選・市民6団体が東京婦人市政浄化連盟を結成した。当時ガス会社増資疑獄、市会議長選疑獄、墓地疑獄、市長選疑獄、社会局疑獄、財務局疑獄などに連座して起訴、収監されていた議員11人が立候補している状況に、「あなたの区には、被疑者が立候補している。掃き出せ、つき出せ、醜類を!!」と書いたチラシや、「市民は選ぶな醜類を 築け男女で大東京を」と書いた立て看板をつくり、チラシまきや演説会を行った。また市会議長選被疑者4人を訪ねて立候補辞退勧告状を手渡し、その他の7人には書留で郵送した。訪ねた4人のうち1人は自発的に立候補を辞退していたが、開票結果、残りの3人は全員落選、郵送した7人のうち3人も落選した。
参政権を持たない女性たちが男性有権者、世論に訴え、間接的に選挙結果に影響を及ぼしたのである。当時から選挙の浄化は民主主義の基本として、市川にとって大きな課題であった。
婦選会館を活動拠点に
敗戦の翌1946年12月、女性参政権実現を記念して、東京・渋谷区の現在地に木造バラック平屋建ての「婦選会館」が建てられた。市川らが寄附を集めてつくったもので、婦人問題研究所の所有とし、新日本婦人同盟の事務所も置かれた。また戦中、都下川口村(現八王子市)に疎開させて戦火を免れた婦選獲得同盟の図書・資料を配架する図書室も設けた。
その後1962年、老朽化した婦選会館を現在の地上3階・地下1階の鉄筋コンクリート造に改築し、婦人問題研究所は発展的に解消して、自治省認可の「財団法人婦選会館」となった。
財団の寄附行為には、主たる目的として「女性の政治的教養の向上と、公明選挙、理想選挙の普及徹底を図り、日本の民主主義政治の基礎を築くとともに、女性問題、女性運動の調査研究を行い、日本女性の地位を向上せしめること」が掲げられた。これに基づいて女性への政治経済教室ほかの諸講座、女性問題・女性運動・女性団体の資料収集や調査研究、婦選図書室の公開、出版、国際交流ほかの事業が行われ、市川は初代理事長として1981年に亡くなるまで、会館運営の責任を持った。1983年には財団名を「市川房枝記念会」と改称し、婦選会館は建物名として残っている。
財団は一昨年創立50周年を迎えたが、市川理事長亡き後の歴史の方が長くなったことは感慨深い。