東京大学名誉教授 大森彌
現職の自治体議員の行動が、いろいろと取り沙汰され、世間の評価が概して芳しくないのには、様々な原因なり理由があるが、今回は、最も初歩的だが、しかし、あまり自覚されていない「自治体の機関になるということはどういうことか」について考え、改めて自治体議会・議員のあり方を指摘してみたい。
自治体議会の現職の議員は、議員になる前に、あるいは議員になってから、議会が自治体の機関であり、議員はその機関に託された役割を遂行する責任を負っている、ということの意味を知っていたであろうか。そう問いかければ、そんな抽象的な問いにどんな意味があるのかと、逆に問い返されるかもしれない。
議員と議会に多くを期待するから、かえって議員・議会の欠点が目につき、批判することが多くなり、その割には改善の実が上がらないのではないか、という見方もないではない。議員も議会も、しょせん「この程度のものだ」と考えれば、腹も立たないですむかもしれない。しかし、やはり「進め!自治体議会」と激励したいと思う。
「地方公共団体は、法人とする」
地方自治法は「地方公共団体は、法人とする」と規定している。この沿革をたどれば、明治21年の市制町村制に遡るが、そこでは、市町村の性格について、「法律上一個人ト均ク権利ヲ有シ義務ヲ負担シ」とし、「市(町村)ハ法人トス」と定めていた。当時の「市制町村制理由」では、「地方の自治区」は、国とは別個の「特立ノ組織ヲ成シ公法民法ノ二者ニ於テ共ニ一個人民ト権利ヲ同クシ之カ理事者タルノ機関ヲ有スルモノナリ其機関ハ法制ノ定ムル所ニ依テ組織シ自治体ハ即チ之ニ依テ其意想ヲ表発シ之ヲ執行スルコトヲ得ルモノトス故ニ自治区ハ法人トシテ財産ヲ所有シ之ヲ授受売買シ他人ト契約ヲ結ヒ権利ヲ得義務ヲ負ヒ又其区域内ハ自ラ独立シテ之ヲ統治スルモノナリ」と説明されていた。
ここでは、自治体は、①権利義務の主体であること、②法人としての自治体は機関を有すること、③その区域内の独立した統治主体であることが規定されている。この法人格の規定は、地方自治法にもそのまま引き継がれた。「地方公共団体は、法人とする」(2条)と。これは、自治体が契約の当事者になれること、法人の仕事は機関にさせること、他の法人と違って「政府(統治主体)」であることを意味している。
法人としての地方公共団体は、その名と責任において事務を処理するが、法人自体は観念的存在であるため、実際には、法人に機関を設けて、自然人(生身の人間)をその機関の職に充てて事務を処理させることになる。議会は自治体の議事(議決)機関とされ、首長は自治体の執行機関、職員はその執行機関と議事機関の「補助機関」とされているのは、そのためである。議会も首長も職員も自治体の機関なのである。
自治体の議事機関と執行機関という2つの機関は、どちらも直接公選となっている。ということは、この2つの機関のみが民主的正統性を持っていることを意味している。民主的正統性とは、選挙を通じて住民の一般的支持を獲得し自治体の正式の意思決定を行う権限を持っていることをいう。これが、法人としての自治体が「政府」(地方政府)であることの特質である。
自治体の機関には、地方自治法等の法律により、一定の権限と責任が割り当てられている。その割り当てられた範囲内で機関が行った行為の効果は、機関自体ではなく当該自治体に帰属するのである。このように、機関の行為の効果が当の機関に帰属しないことを「機関には人格がない」という。しばしば、首長は、機関として行った行為が自分の手柄のように思っているように見受けられるが、手柄は、当該自治体に帰属するのであって、首長本人には帰属しない。同様に、機関としての議会が行った行為の効果は、その議会には帰属しない。仮に住民からも世間からも、すばらしい議会だと評価を受ければ、その評価は、その自治体の評価になるのである。
実際に行為をするのは具体的な人格(具体的な生身の人間)であるが、それは、あくまでも機関として振る舞うのであって、その意味で機関になるということは非人格化することなのである。生身の人間を機関としながら、その機関には人格が問われないということは、簡単には理解しにくいだろう。
人格(キャラクター、パーソナリティ)は、一般には、DNAという生得的要因と後天の環境的要因とそれらの相互作用によって発展的かつ適応的に形成されるものと考えられている。男女の区別、体質・気質、顔つき・体つきはもとより、感性・知力・意思、言葉遣い・表情・しぐさなど、十人十色であり、一人として同じ人格はいない。
ある人が法人としての自治体の機関になっても、生身の人間であることをやめるわけではない。しかし、機関になるということは、ある職務の遂行者になるということなのである。職務を媒介にして人格は機関に転換するといえる。全人としての生身の人間が、一定の職務を担う部分的な職能人になるのである。議会人とは職能人である。
したがって、一定の職務を適切に遂行する限り、その遂行者が誰であってもよいわけである。機関としての議会の責務を一員として遂行する議員は、一定の形式的条件(25歳以上とか3か月以上住民であることなど)は問われるが、男か女かとか、どういう経歴の持ち主かといったことは問われない。議員になるには、適正な選挙活動を通じて当選することのみが条件となっている。
自治体の機関と男女の区別
しばしば、自治体議会の議員の構成が男性に偏っていることが問題にされるが、それは、「一定の職務を適切に遂行する限り、その遂行者が誰であってもよい」という法人の機関になるということの意味を、有権者の住民も立候補者もよく分かっていないことに基因しているのではないか。住民からすれば、一体、議会はどういう職務を遂行する責任を持っていて、議員たちは、どう振る舞えばその責任を果たすことになるか、なかなか判断しにくい。
それにもかかわらず、自治体議会の議員はやはり男でなければ、というのは、「議会人とは職能人である」という観点からは、全く成り立たない主張(へ理屈)である。男という人格の属性が機関としての議会の任務遂行にとって、より適合的であるなどとはいえない。議会に与えられた職務を適切に果たす知識も能力も十分でなければ、男であることは無意味である。「女のくせに出しゃばるな」といった言いぐさも、「頼りになるのは男だ」という強弁も、議会が自治体の機関であることへの無知に基因している。議会の任務を遂行する機関としては男女の区別は無意味である。長い間、女性は、肉体的・知的に男性より劣っているとか、育児や家事に専念し家庭を守るのが社会的本分であるとか、根拠のない理由から男の既得権益が守られてきたにすぎないといえよう。
一方、自治体議会の議員には女性の方が向いているともいえないことになる。女性議員が少なすぎるから、候補者の一定比率を女性に割り振る「クォータ制」の法制化を検討し、自治体議会についても女性が活躍できる環境整備を進めるべきだという見方と動きがある。女性議員が増えれば、男性議員にはない知見、知識が生かされ、議会はよくなるという主張のように思えるが、一概にそうとはいえない。個別のケースでは、女性議員の方が、会派にとらわれず是々非々で物事を判断するのが得意だ、物事に分かったふりをしないので追及心も旺盛だ、といった見方はある。しかし、それは人による。議員に当選し慣れた後は、不透明な根回しの技を身につけ住民指向を忘れてしまったのではないかと思われる女性議員も、政務活動費を不正に使用する女性議員もいるのである。
確かに、依然として、自治体議員の中には、女性議員を蔑視しているとしか思えない言動をする男性議員が絶えない。こうした事態を改革するためには、女性議員を増やすに越したことはない。ただし、女性だから議会の任務を適切に遂行するとは限らない。男女の区別なく、自治体の議事機関としての議会の任務を果たすならば、誰でもよいのである。
有権者としての住民については、議会はどういう職務を遂行する責任を持っていて、どう振る舞えばその責任を果たしたことになるかという点について基本的な知識を持った上で投票しているかどうかが問題になる。地元の人だからとか、縁がある人だからとか、困りごとの相談では頼りになりそうだからとかといった理由で、ある立候補者に1票を投ずる有権者は、およそ議員になるということが自治体の機関になることであり、そのことはどういう責務を負うことになるのか、当の候補者がその任を十分に果たしてくれそうかどうかは、考えたことはないということになる。
そのようにして当選した議員も、自分が自治体の機関になったこと、人格ではなく職務遂行の能力と責任が問われるのだということには気がつかない。自分の振る舞いの効果は、自分ではなく自治体に帰属することには無頓着になる。拙劣で無責任な振る舞いは、議員個人の問題というだけではなく、自治体自体の評判を毀損することになるのである。
議事機関としての行為準則
ところで、議事(議決)機関としての議会は、いわば器ないし装置であって、一定数の議員が4年任期で選ばれ、選ばれた議員たちが機関に与えられた任務を果たすべく活動すると、装置としての議会が起動するという仕掛けになっている。どういう時期の、どういう時代潮流の中にある4年間であるかによって、任務遂行の具体的な内容や優先順位に変化が起きうる。
議会の任務は議員全員で遂行する。議員全員が何をどうすべきかを知っていなければ、機関としての責任は果たせない。その意味で議員には一定の知識と能力が求められている。しかし、選挙で選ばれることは、必ずしもその保証にならない。相当に不ぞろいな議員が議会を構成することになる。当選回数が多い議員が多くなると、ある意味で不ぞろいさは少なくなるかもしれないが、知識と能力の点で低位均衡になる場合もある。沈滞し、代わり映えしない議会になってしまうこともあるのである。
そこで、4年任期で選ばれて議会を構成した議員にとっては、全員で共有しなければならない基本認識があるのではないか。まず、自治体の議事機関になり、職能人として行動するのであるから、自由気ままな行動は許されなくなり、機関に与えられた責務を誠実に遂行しなければならない。機関として行動するためには、生身の人間としての自己抑制・自己規律が不可欠になる。もし徹頭徹尾、機関としての行動に専念させようとするならば、職務の範囲、内容、手続を細かく標準化し、適合か逸脱かの判定を行いやすくしておかなければならない。それは、ほとんど不可能に近い。実際には、誰であるかによって職務遂行の質(段取り・速度・達成度・費用など)が違ってくる。職務を媒介にして人格は機関に転換するといっても、人格の影響を排除できないのである。だからこそ、少なくとも機関としての行為準則の周知徹底が必要になるはずである。
議事機関として議会がその任務を遂行する上で問題になるのは、議員の個別人格ではなく、議員が所属する政党・会派の存在だという見方がある。議会が小規模で会派がないと議会改革がしやすいが、規模の大きな議会では無理だといわれる。確かに、議事機関としての議会が、議員間の討論と合意形成を図り、一人の議会人のように振る舞うことには特段の工夫がいる。それでも、政党・会派を超えて「チーム議会」を形成し、議決機関としての任務を遂行しようとしている規模の大きな議会はある。自治体の議事機関として議会に託されている一定の職務を適切に遂行しようとする限り、政党・会派の分立は乗り越えられるはずである。そういう努力をしないで改革を回避しているのは、自治体の機関としての自覚に欠けているからではないか。