大分市議会が議会基本条例を制定した頃は、議員定数の少ない小さな自治体の議会は議会基本条例を制定することができていたのだが、大分市議会のような議員定数の多い議会での条例制定は初めてであった。しかも全会一致ということであったので、他市からの視察が突然増えることとなった。
議会基本条例制定後は、議会に関することの視察対応は議員自らが行い説明をするということになっていたので、私もかなりの数の視察対応を行ったが、視察に来られた多くの議会改革推進派議員の口から出た、その市で“議会改革”が進まない理由が「議長がやる気がない。分かっていない」、「最大会派の長老議員たちが邪魔をする」であった。
この時点で改革推進派議員とそうでない議員、特に年配の議員との対立ができ上がっているのである。
議会は良くも悪くも議長を中心に動くようにできている。議長が発言したことが、できるできないは別にして、とりあえずすぐに動き始めるので、議長になってその権限のすごさに私自身が驚いたところである。
また、その議長を輩出し支えているのは、一般的にはその議会における最大会派である。したがって、議長と最大会派の長老議員、この2人を敵に回すということイコール“議会改革”どころか何も話は進まないということになる。
中には、市民を味方につけ、市民の声で中央突破し反対派の議員を押し切り“議会改革”を推進しようとしている議員もいたようであるが、市民の多くは“議会改革”はやらないよりはやった方がよいレベルの意識で、その中身に関してほとんど興味を持っておらず、具体的な応援行動は何も起こしてくれない。
マスコミを味方につけてという議員もいたが、マスコミは議員の不祥事は大々的に取り上げるが、議員が良いことをしても取り上げてくれないし、万が一取り上げてくれてもその扱いは非常に小さなものである。
ということは、議会自らの力で自らが変わっていくしかないということになる。
では、大分市議会で“議会改革”が進んだのはなぜなのか? 私、そして議会事務局長は何を行ったのか?
当時、大分市議会の各会派のうち、社民クラブ・公明党・民主党・共産党・無所属からは“議会改革”に協力する旨の言葉をいただいていた。また、それぞれの会派の議員からも議会改革が必要であるとの発言が公に発せられていた。
ならば、そのときの議長は私本人なので、議長を口説く必要はない。残すところ最大会派・自民党から協力を得ることさえできれば目的は達成できることになる。自民党内にも“議会改革”を進めたいという議員はいたので、彼らが公に動けるよう自民党議員団団長を説得すればよいだけである。
そう、最大会派・自民党議員団団長を説得し協力を得ることだけに専念していたのである(議会改革の中身はほぼ若手に任せていた)。
自宅に押しかけ頭を下げ、宴会があれば真っ先にお酌に伺い、こてこての昭和的営業・根回しを行っていたのである。
これら非公式な接触から彼の本心を聞き出し、彼が問題と考えること、もちろん個人的な感情もあったが、それを一つひとつクリアし、“議会改革”の協力者・推進者へと導いていったのである。