山陽学園大学地域マネジメント学部准教授 澤 俊晴
1 はじめに
言語とは、「通常の用法において、一般の人間の間で行われる音声と文字による伝達の現象」⑴であり、「音声によって分節された思想表現」⑵とされる。そのため、かつて、言語学の分野では、音声のない「手話」は「言語」と認められてこなかった。近年になって、やっと「手話はそれ自体で立派に1つの言語であると見な」⑶されるようになり、「手話は音声表現を欠くという点を除けば他の自然言語の特徴をすべて備えており、単なる身振り・手振りなどと異なって、複雑かつ抽象的な伝達に用い得る」⑷といわれるようになった。
そして、最近の辞典では、手話は「手指や顔の動きを用いる自然言語の一種。日常的な意味で『言語』というと、音声・聴覚による体系を持った音声言語を思い浮かべがちだが、音声言語と同様、手話もまぎれもなく『言語』である。両者は、言語一般に見られる社会的な機能、心理的な機能、言語獲得といった多くの側面を共通して持つ」⑸と記載されるようになっている。
このように、現在では、「手話が言語である」ことは、言語学の分野では認知されているといってよい。
また、手話には大別して、「耳の聞こえない人々の間で自然発生的に発達した、概念に基礎を置く体系」と「口語言語の構造に忠実に考案された体系」があるとされる⑹。日本では、一般に、前者の自然発生的に発達した体系を「日本手話」といい、「生まれつき耳の聞こえないろう者が使用」⑺する「日本語と異なる独自の文法体型を持つ自然言語である」とされる⑻。
それに対し、後者の口語言語に基づく体系を「日本語対応手話」といい、「日本語を獲得した後に失聴した中途失聴者や難聴者が使用」し⑼、「音声日本語を手指によって表した日本語のコード」であり⑽、「『音声日本語』の一種であって、『手話言語』ではない」⑾とされる。
このような「手話」を対象とする手話言語条例は、全日本ろうあ連盟のウェブサイト⑿によれば、平成30年9月28日現在で、24道府県、166市区町で制定されている(2018年9月30日確認)。これらの条例の構成は類似しており、具体的には、前文又は目的規定で「手話が言語である」と述べるとともに⒀、基本理念、県や事業者等の責務・役割、普及啓発などを規定する、いわゆる理念型条例⒁となっている。
各道府県の手話言語条例の構成が類似している一因は、「手話言語条例」制定の嚆矢となった平成25年10月11日施行の「鳥取県手話言語条例」の構成を他の道府県が継受したことにあると考えられる⒂。
また、手話言語条例のような理念型条例は、条例制定直後はマスコミ等にも取り上げられ、予算も手厚く配分される傾向にあるが、年を経るごとに関心は薄くなり、予算も減額されるのが常である。
このため、条例制定後、一定の年数を経た時点でも、条例に基づく施策展開が行われているか否かが、条例制定の意義を考える上で重要な意味を持っている。 なお、これまでも「方言」に着目した条例が制定されたことはあったが⒃、「一つの国民、一つの言語、一つの国家」という国民国家概念にも関わる「言語」を正面から取り上げた条例は、「手話言語条例」が初めてだと思われる。しかも、ここ5年のうちに、都道府県の半数近くで制定され、市町村条例も含めて急速に広がっていることから、その立法事実には興味深いものがある。
そのため、本稿では、最も早く条例を制定し、条例制定後、すでに5年を経過した鳥取県手話言語条例(平成25年鳥取県条例54号。以下「本条例」という)を取り上げ、条例施行後の取組みや課題をも視野に入れて、本条例の立法事実を検討していくこととする。
2 条例制定の背景
本条例制定の端緒は、平井鳥取県知事によれば「二〇一三年一月、鳥取県の積極的な政策を知った全日本ろうあ連盟久松三二事務局長が私を県庁に訪ねて来られ、地元の聴覚障がい者とともに、国に先駆けて鳥取県がモデルとなり『手話言語条例』をつくって欲しい、と訴えられた」⒄ことにある。
そして、同じ年の4月11日には、平井知事は、定例記者会見で「手話言語条例とか手話促進条例とでも言うべき手話条例の制定を検討したらどうだろうかなというふうに考えて」⒅いると述べている。
このように、平井知事が積極的な姿勢を示している背景には、知事自身が「学生時代に日本赤十字のボランティアをしていた時から手話に触れた機会」⒆があったこと、2006年12月13日に国連総会で採択された「障害者の権利に関する条約」⒇2条の定義規定で「『言語』とは、音声言語及び手話その他の形態の非音声言語をいう」として「手話」を言語と明記したこと、この条約締結に向けた国内法整備の一環として平成23年に改正された障害者基本法(昭和45年法律84号)3条で「言語」に「手話を含む」と規定されたこと21、そして、「全国初」の条例を制定したいという思いがあったと思われる。
3 条例の制定過程
平成25年4月には、「条例案を作ること、条例案の内容は研究会で議論して検討していくことは決まって」(22)おり、平井知事も、平成25年4月11日の定例記者会見で「日本財団とも協力をして、共同研究として手話言語条例、手話促進条例とでも言うべき手話条例について、まずは研究」するとしていた。
そして、同じ月の16日には、日本財団の尾形理事長が平井知事と面談し、手話言語条例の制定に向けて全面的な協力を約束し、同月22日に、鳥取県障がい福祉課と日本財団が事務局となって、第1回鳥取県手話言語条例(仮称)研究会(以下「研究会」という)が開催され、当事者であるろう者からの意見聴取などが行われている。
それからおよそ1か月半後の6月10日の平成25年6月定例県議会で、平井知事は、手話言語条例に関する質問に対して「できるだけ早く条例の案を作り、議会にも相談できるようにしたい」と答弁し、その直後の同月23日の第57回鳥取県ろうあ者大会で、鳥取県ろうあ団体連合会会長が平井知事に対し、できるだけ早く制定するよう要望している。
その翌月の7月4日、第2回研究会が開催され、手話言語条例(案)の論点に関する議論が行われた。ここから、条例制定に向けてスピードが大幅に加速していく。同月24日には第3回研究会が、翌月の8月8日には第4回研究会が開催され、同月中に「鳥取県手話言語条例(案)」を含む「鳥取県手話言語条例(仮称)研究会報告書」が作成されている。
この第2回から第4回までの研究会の開催間隔は、異常といってよいほど短く、それを象徴するように、第4回研究会では、報告書原案に対する意見の回答期限について、委員から「一般的な考えで明日意見とか、お盆をはさんで一週間というのは、普通じゃあり得ない」(第4回研究会議事録)と指摘されたほどであった。
なお、研究会では、事務局が用意した条例要綱案(「鳥取県手話言語条例(案)の論点」、「鳥取県手話言語条例(素案)」、「鳥取県手話言語条例(案)」)を基に、手話言語条例を制定する意義、県、県民、事業者、ろう者等関係者の役割・責務、手話の使用に関する環境整備などについて議論されている。
また、研究会の開催と並行して、平成25年7月26日から同年8月8日までの期間で、鳥取県手話言語条例(仮称)案のパブリックコメントが実施されている。パブリックコメントでは、県民から「普及啓発活動」、「教育に関する取組」、「手話学習会等、実際に手話に触れ、学ぶ取組」も重要だとする意見が多数出された一方で、少数ではあるが、条例制定は時期尚早だとする意見や、「手話を言語と認める」ことが主目的の条例であれば必要ないといった意見も出されている。
一般に、パブリックコメントは、対象とする「条例案」の内容がある程度固まった段階で行うが、本件については、いまだ研究会で議論が行われている最中に実施されており、異例な対応ではないかと思われる。また、鳥取県パブリックコメント実施要領(平成17年4月1日施行)では、「募集期間は1か月程度」とされているにもかかわらず、本件については、募集期間が2週間にも満たない。さらに、同要領では、意見募集は条例案を「提案しようとする議会の一つ前の議会の最初の常任委員会の開催日までに実施すること」とされているにもかかわらず、条例案を提出した議会の開会直前である8月に実施している。
なお、県民向けの鳥取県手話言語条例(仮称)案説明会も、報告書のとりまとめ中で、かつ、意見募集期間終了直後の8月10日に開催されている。
このような異例づくしのスケジュールとなった要因は、平成25年9月定例県議会に条例案を提案することが絶対視されていたためであろう。そのため、研究会での検討が十分でないにもかかわらず、報告書が作成され、また、言葉は悪いが、アリバイ工作的にパブリックコメントと県民説明会が実施されたようにみえる。
では、なぜ平成25年9月定例県議会に間に合わせなければならなかったのであろうか。積極的な理由は見当たらないが、当時の研究会事務局の県側担当者は「もともと、1年間かけて条例案を作ろうという話だったのですが、平成25年6月に開催した鳥取県ろうあ者大会において、鳥取県ろうあ団体連合会の萩原会長から知事に対して、『せっかく作るのならできるだけ早く、良いものを作ってもらいたい』との要望があり、平成25年9月県議会に条例案を提案することにな」(23)ったと述べている。
推測の域を出ないが、おそらくその要望と、全国初の条例として、どこよりも早く成立させたいという平井知事の意向とが合致して、検討開始から極めて短時間での条例案の上程となってしまったのであろう(実際、同時期に石狩市が条例の制定に係る検討会を立ち上げ、平成25年12月19日に「石狩市手話に関する基本条例」を公布している)。
なお、研究会は、学識経験者4人、県内当事者団体2人、ボランティア・地域福祉4人、商工団体1人、行政関係4人の委員によって構成され、オブザーバーとして全日本ろうあ連盟、鳥取県ろうあ団体連合会事務局次長が入っている。
学識経験者の枠には、大学教員2人のほかに、全日本ろうあ連盟理事及び監事が含まれており、条例制定の圧力団体である「全日本ろうあ連盟」の理事及び監事を学識経験者と位置付けることにいささか奇異な感を受ける。
また、「言語」がテーマである条例を検討する研究会であるにもかかわらず、大学教員の専門は「公法学」、「行政学」であり、「言語学」やそれに類する分野を専門とする大学教員は入っていない。
おそらく、「言語学」の代わりに、「手話」の専門家として全日本ろうあ連盟の理事及び監事を学識経験者の枠に入れたと思われるが、重要な検討事項である「言語」についての専門家を委員に入れず、客観的な立場からの発言が求められる学識経験者の枠に、圧力団体の理事等を位置付けたことは、委員構成の点で疑問を持たざるを得ない。
さらに、条例案を上程した平成25年9月定例県議会での質疑において、平井知事は、「『手話は言語と言えないのではないか』などの意見も出た。しかしながら、慎重な審議を尽くした末に出た結論は、満場一致で可決だった」(24)としているが、非常に重要な論点を指摘するこの意見に対し、質疑ではその問題が解決されていない。
具体的には、「仮称とはいえ手話言語条例という名の表題から考えて、そもそも一体手話は言語なのかという難解な命題に答えなければならないと思います。確かに障害者の権利に関する条約も障害者基本法3条3号も、さらりと手話を言語であると規定しておりますが、言語学上の言語と法律上の言語の定義については難しい問題がある」(平成25年9月定例県議会(10月2日)稲田議員質問)というものであるが、これに対して平井知事は、「手話は言語なのだろうか、所見を問うということでありますが、今も申し上げましたとおり、これはサインランゲージとして認めるべきものであります。英語でもランゲージという言葉が当てられているように、立派な言語」であると答弁するのみで、手話の定義や言語の意味については、曖昧な回答をしている。
また、同じ議員からの「日本手話は、生まれながらにして耳が不自由な方々がつくり上げてきた文化であり、日本語対応手話は健聴者がつくり上げてきた文化であります。この2つの手話のバランスをどのようにとるお考えなのか、伺います」との質問に対しても、全日本ろうあ連盟の主張(25)に沿って「そこを余り厳密にやり過ぎると、手話について結局理解が進みにくくなってしまう」、「日本語対応手話と日本手話とは、いわば曖昧な形でありますけれども、今回は手話として書いてしまおうというのが聾者の方々と話し合ったコンセンサス」と答弁しており、質問に対して正面から答弁したものになっていない。
本会議で条例案についての質問がなされ、それに対し知事が答弁したということは、その限りでは充実した審議であり、議会審議のあり方として望ましいといえる。しかし、その反面、これほど条例案の本質的な問題に迫る質問が出て、それに対して適当な答弁がなされなかったことは、非常に残念である。
4 条例の概要
本条例は3章から構成され、条文数は23条である。 1条から7条までが第1章の総則規定であり、1条の目的規定では、「手話が言語であるとの認識に基づき」と規定され、条例の最終目的は、「ろう者と立法事実からみた条例づくり61ろう者以外の者が共生することのできる地域社会を実現すること」とされている。
2条は手話の意義について述べられており、「手話は、独自の言語体系を有する文化的所産」と規定され、3条は手話の普及に係る基本理念を定めている。 4条及び5条では、県民や住民の理解を深め、手話を使用しやすい環境を整備するといった県と市町村の責務が、6条では、手話の意義等を理解するという県民の役割と、その理解の促進や手話の普及についてのろう者の役割が規定され、7条では、ろう者が利用しやすいサービス提供や働きやすい職場環境整備に係る事業者の役割が規定されている。
8条から16条までが第2章「手話の普及」であり、8条は県が定める障害者基本法に基づく計画において手話に係る施策を定めることを規定するとともに、その施策を定める際には、第3章により設置する鳥取県手話施策推進協議会の意見聴取や、施策の実施状況の公表や見直しを知事に義務付けている。
9条は、県による、あいサポート運動の推進、県民が手話を学べる機会の確保、職員の手話を学習する取組みの推進を、10条は、同じく県による、手話を用いた情報発信、手話通訳者の派遣、ろう者等の相談を行う拠点の支援等を規定している。
11条は、市町村と協力して、県が手話通訳者等及びその指導者の確保、養成及び手話技術の向上を図ることを規定している。11条で「市町村と協力して」と規定しているのは、手話通訳者等の派遣事業が、障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(平成17年法律123号)で市町村の事務とされているためである。
12条は、ろう児が通学する学校の設置者は、教職員の手話技術向上に必要な措置を講ずるとともに、ろう児及びその保護者への学習の機会の提供、教育に関する相談・支援に努めること、そして、県は、学校教育で利用できる手引書の作成その他の措置を講ずるよう努めることを規定している。
13条は、県が、ろう者が利用しやすいサービスの提供や働きやすい環境の整備を行う事業者に必要な支援を行うことを規定している。
14条は、ろう者及びろう者の団体は、自主的な普及啓発活動に努めることを規定している。
15条は、県はろう者等が行う手話に関する調査研究の推進・成果の普及に協力することを規定している。
16条は、県は手話の普及に関する施策を実施するため、必要な財政上の措置を講ずることを規定している。
第3章では、附属機関としての鳥取県手話施策推進協議会について、その設置(17条)、組織(18条)、委員(19条)、会長(20条)、会議(21条)、庶務(22条)、雑則(23条)が規定されている。
最後に、附則で施行期日を公布の日と定めている。
なお、本条例には、700文字以上という長大な前文が付いている。前文自体には規範性はないが、解釈上の指針としての役割を果たすこともある。しかし、本条例の前文では手話の歴史や条例制定に至る経緯などが述べられているだけであり、さして重要性はないと考えられる。
5 立法事実の検討
「手話が言語である」と定める条例の目的としては、まず、「手話」を「言語」と認めることで、手話を言語政策に位置付けることが考えられる(日本語対応手話は「音声日本語」の一種であり、日本語を言語と位置付ける必要性はないので、ここでは「手話」とは「日本手話」を意味する)。例えば、「手話」を公用語とするとか、消滅危機言語として「手話」の保存を図るといった施策が考えられる(26)。
次に、「手話が言語である」として、母語(=手話)を使う権利や母語(=手話)による教育を受ける権利などを基本的人権として認め、あるいは、条例によって付与することを目的とすることが考えられる(この場合も「手話」は「日本手話」を意味する)。
最後に、障害者福祉政策の一つとして「手話の普及」を図ることを目的とすることが考えられる(この場合は、広範に意思疎通が可能となることが重要なので、手話には「日本語対応手話」も含まれることになる)。
本条例の第2章の各条文だけを見れば、最後の障害者福祉政策のための条例であるように見える。
しかし、平井知事が記者会見や議会答弁で「手話が言語である」と定める意義を述べ、他国においては憲法に手話を言語と明記している事例があることを強調し(27)、また、わざわざ1条の目的規定でも「手話が言語である」と宣明し、さらに、手話を獲得する権利、手話で学ぶ権利、手話を学ぶ権利、手話を使う権利、手話を守る権利の五つの権利を規定する全日本ろうあ連盟の「手話言語法案」を鳥取県が条例作成に当たって参考にしたことからすると、本条例は、言語政策、あるいは権利保障の意図も有しているようにみえる。実際、本条例2条の手話の意義についての規定では、「独自の言語体系を有する」として、手話を「日本手話」に限定する規定を置いている。
したがって、本条例が言語政策を目的としているということであれば、それは、具体的には、「手話」を「公用語化する前段階として「言語」と認知するということであろう。つまり、「非言語」とされてきた「手話」を、条例によって「言語」と認めることで、法律による「手話」の公用語化に至る階梯の一つとすることが立法事実ということになる。
なお、日本には、公用語を日本語とするという法律は存在しない。文字・活字文化振興法(平成17年法律91号)や文化芸術基本法(平成13年法律148号)、学校教育法(昭和22年法律26号)では「国語」と表現されるだけであり、かろうじて、裁判所法(昭和22年法律59号)74条で「裁判所では、日本語を用いる」と規定されているだけである。そして、これらの法律は、日本語が公用語であることを前提として「国語」と、あるいは「日本語」と規定されているが、この「国語」あるいは「日本語」に「手話」は含まれていない。このことは、「方言」や「アイヌ語」なども同様である。つまり、日本では、東京の山の手の方言が「国語」とされて、戦前から旧植民地も含めて普及が進められ、手話や方言、アイヌ語や琉球語、旧植民地の言語は「中央集権的な同化政策により周縁化・矮小化する」(28)という言語政策がとられてきた。
そのため、仮に、本条例が、「手話」の公用語化という言語政策を目的としているならば、それは、国の言語政策に対する異議申立てという意義を有していることになる。
さらに、言語政策としての条例の必要性としては、少数言語・消滅危機言語の保護が考えられる。実際、「今日世界で話されている五〇〇〇かそこらの言語の中の、少なくとも四分の三は(九〇%か、あるいはもっと、と言う人もいる)、ヨーロッパ人の植民でそもそも生じた平衡期の中断の結果として、二一〇〇年までに話されなくなるだろうとの予測がある。これらの言語が消滅する前に、記録に留めることは喫緊の課題だ」(29)とする指摘もあり、例えば、「アイヌ語」について、ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、世界の消滅危機言語の中でも最も消滅危険性の高い極めて深刻な状況にあるとしている。
しかし、同じ少数言語であっても、手話は、ろう者がいる限り存続すると考えられており(30)、すぐに消滅するという状況ではない。ただし、今後日本全体での子どもの減少、インターネットの普及による文字情報の伝達方法の革新、さらには人工内耳など科学技術の発達による聴覚障害の解消により、ろう者数が劇的に減少することになれば、手話も消滅する可能性があるといえる。
そのため、手話「言語が消滅する前に、記録に留めることは喫緊の課題だ」とはいえるかもしれない。
したがって、そのことを見据えた上で、その保護を目的とした条例を制定することは、言語政策としては合理性があるといえる。
しかし、本条例は、その題名に「手話言語」を掲げ、1条に「手話が言語である」と規定しているにもかかわらず、条例全体からは、言語政策を立法事実とする意図が全く感じ取れない。次に、公立のろう学校であれば「教室内の言語として手話を用いる」ことができるようになることから、「都道府県レベルの条例制定によって『手話を学ぶ権利』の保障を規定する」ことに意味があると考えることができる(31)。
これは、手話を獲得する権利などを「新しい人権」と位置付け、自由権か社会権かは別として(32)、手話に係る「言語権」(33)を解釈論ではなく「条例」の制定という立法論で保障していくという方向である。仮に、本条例がその方向で作成されたのであれば、その目的は、条例で「言語権」を宣明し、個々の条文に権利規定を設けることにあると考えられる(34)。
しかし、本条例では、権利保障あるいは権利付与をうかがわせる規定は設けられていない。条例で、創設的に権利を付与することはできないという理解があるのかもしれないが、情報公開条例で住民の「知る権利」を宣明し、情報開示請求権を規定しているように(35)、基本的人権としての「言語権」を確認的に宣明し、(あるいは単に)「手話で学ぶ権利」などの具体的な権利を条文に規定することも可能であったと思われる。
しかし、そのような検討は、研究会を含め、条例の制定過程ではされていないようであり、また、手話に係る権利付与などのための条文も設けられていないことから、本条例は、権利保障を立法事実としていないことが分かる。
最後に、障害者福祉政策としての「手話言語条例」の必要性を検討する。第一義的には、政策の対象となる「手話」(ここでは障害者福祉政策としての検討であるため、言語政策や権利保障と異なり「日本語対応手話」も含めた広い意味での手話が対象となる)を使う者の数を把握する必要があるが、現状、「手話人口」についての統計データは存在していない。
例えば、手話を母語とする者については、「結論として、3.5万人、4.3万人、5.7万人とかなり数字の開きがある」、「手話を母語とする人をろう者と定義すると聴覚障害者数と比べかなり少ない」、「手話を学習し、プロあるいはボランティアとして通訳している人、手話学習者を含めた『手話人口』はどのくらいいるのかわからない」とされている(36)。
仮に、ろう者を手話を母語とする者と捉え、障害者福祉政策の対象者になると考えた場合に、その推計人口を全立法事実からみた条例づくり63国で6万人(手話を母語としない手話通訳者などを含めれば、その数はもう少し多くなると思われるが)と見積もったとして、これを単純に、全国人口(1億2,649万人(総務省統計局人口推計(平成30年8月報)))に占める鳥取県人口56万852人(鳥取県人口移動調査(平成30年8月1日現在))の人口比で割ると、鳥取県内のろう者はおよそ266人となる(37)。障害者福祉政策としては、条例制定の合理性にいささかの不安を感じさせる数字である。
以上のことから、本条例を制定する特段の立法事実があるとはいえないのではないだろうか(38)。
⑴Matthews,PeterHugoe著、中島平三=瀬田幸人監訳『オックスフォード言語学辞典』朝倉書店(2009年)。
⑵ゲオルク・フォンデァガーベレンツ著、川島淳夫訳『言語学─その課題、方法、及びこれまでの研究成果』同学社(2009年)5頁。
⑶デイヴィッド・クリスタル著、風間喜代三=長谷川欣佑監訳『言語学百科事典』大修館書店(1992年)309頁。
⑷松本裕治ほか『岩波講座言語の科学1言語の科学入門』岩波書店(1997年)43頁。
⑸斎藤純男=田口善久=西村義樹編『明解言語学辞典』三省堂(2015年)116頁〔稲垣和也執筆部分〕。
⑹デイヴィッド・クリスタル・前掲注⑶317頁。
⑺神田和幸編著『基礎から学ぶ手話学』福村出版(2009年)108頁。
⑻中島平三監修、今井邦彦編『言語学の領域Ⅱ(シリーズ朝倉〈言語の可能性〉2)』朝倉書店(2009年)72頁。
⑼神田・前掲注⑺108頁。
⑽中島監修、今井編・前掲注⑻72頁。
⑾日本学術会議「提言音声言語及び手話言語の多様性の保存・活用とそのための環境整備」(2017年)2頁。
⑿https://www.jfd.or.jp/sgh/joreimap
⒀目的規定に「手話が言語である」と規定しなかった県は、おそらく規範性のある条文に規定できないと考え、規範性を有しない前文で述べるにとどめたのではないかと思われる。
⒁理念型条例とは、「条例の目的に対して、自治体や住民の責務を抽象的に定めるような規定しかなく、具体的な住民の権利義務に影響を及ぼしたり、自治体組織の活動を拘束するような内容の規定を持たない条例のこと」(田中孝男『ケースで学ぶ立法事実』第一法規(2018年)45頁)である。
⒂大阪府を除いた道府県条例で鳥取県手話言語条例と同様に長大な前文が設けられているのも、手話言語条例の特徴である。
⒃沖縄の島言葉の普及促進を目的とした「しまくとぅばの日に関する条例」(平成18年沖縄県条例35号)や、最近では、前文に方言を使った「久慈市議会基本条例」(平成26年久慈市条例8号)などがある。なお、「方言」か「言語」かは「純粋な言語的特徴よりも政治的・民族的な要因に左右される」(佐久間淳一=加藤重広=町田健『言語学入門』研究社(2004年)10頁)のであり、「『琉球語(方言)』は、『語』と『方言』の境目をゆれている」(真田信治=庄司博史編『事典日本の多言語社会』岩波書店(2005年)258頁)とされている。
⒄平井伸治『小さくても勝てる』中央公論新社(2016年)231頁。
⒅鳥取県知事定例記者会見録(2013年4月11日)。
⒆平井伸治「先進・ユニーク条例障がいを知り、ともに生きる鳥取県手話言語条例から手話革命を」自治体法務研究36号(2014年)65頁。
⒇日本は2007年9月28日に署名し、2014年1月20日に締結され、同年2月19日に発効した。
(21)3条3号で「全て障害者は、可能な限り、言語(手話を含む。)その他の意思疎通のための手段についての選択の機会が確保されるとともに、情報の取得又は利用のための手段についての選択の機会の拡大が図られること」と規定されている。
(22)秋本大志「手話言語条例─鳥取県の今─」手話通訳学会基調講演(2015年)5頁。
(23)秋本・前掲注225頁。
(24)平井・前掲注⒄232頁。
(25)全日本ろうあ連盟のウェブサイト「手話言語に関する見解」(掲載日:2018年6月19日)では「手話を『日本手話』、『日本語対応手話』と分け、そのことにより聞こえない人や聞こえにくい人、手話通訳者を含めた聞こえる人を分け隔てることがあってはなりません」と記載されている。
(26)日本学術会議・前掲注⑾もそのような施策を求める提言内容を含んでいる。
(27)「フィンランドの憲法であるとかニュージーランドの法律であるとかハンガリーの法律であるとか、さらにスウェーデンでも言語法が制定されまして、少数民族の言語とあわせてこうした手話も、スウェーデン手話も国語として認知をされ、その利用の促進が図られるように国全体の体制が整いました」(平成25年9月定例県議会知事答弁)。
(28)橋内武「言語権・言語法」国際文化論集45号(2012年)111頁。
(29)R.M.W.ディクソン著、大角翠訳『言語の興亡』岩波書店(2001年)163頁。
(30)斉藤くるみ『少数言語としての手話』東京大学出版会(2007年)187頁。
(31)金澤貴之「手話関連条例が果たす役割に関する考察」手話学研究23号(2014年)34頁。
(32)「手話を使う権利」は主に自由権に属し、「手話で学ぶ権利」(母語で教育を受ける権利)は主に社会権に属すると考えられる。
(33)言語権の概念については、小嶋勇「言語に関する権利と法制」渋谷謙次郎=小嶋勇編著『言語権の理論と実践』三元社(2007年)107頁以下を参照。
(34)鳥取県としてろう者の権利を保障するのであれば、鳥取県の様々な例規に規定されている「口頭」を、ろう者については「手話」と読み替える規定を設ける改正を行うことであろう。例えば、鳥取県個人情報保護条例(平成11年鳥取県条例3号)による口頭による個人情報の開示請求や、職員の勤務条件に関する措置の要求に関する規則(平成10年鳥取県人事委員会規則15号)による口頭審理、鳥取県聴聞等の手続に関する規則(平成6年鳥取県規則54号)による聴聞、鳥取県行政手続条例(平成6年鳥取県条例34号)による口頭による弁明機会の付与といった手続について、「手話」によることも認めるといった規定を設けることである。
(35)鳥取県情報公開条例(平成12年鳥取県条例2号)も1条で「県政に対する県民の知る権利を尊重して、公文書の開示を求める権利その他情報公開に関し必要な事項を定める」と規定している。
(36)神田和幸編著『基礎から学ぶ手話学』福村出版(2009年)178頁・179頁。
(37)第9回(平成30年度第1回)鳥取県手話施策推進協議会の会議資料によれば、平成30年3月末時点で鳥取県内に約500人のろう者がいると推定しているが、これは手話を母語としない者を含めた数字であろうか。
(38)なお、そのほかに、鳥取県が全国の先頭を切って進めている「あいサポート運動」のための予算確保を目的としたものという検討もしてみたが、研究会に鳥取県の事務局が当初提示した「手話言語条例(案)」には「財政上の措置」の項目はなく、第2回研究会で、委員からその必要性を指摘されて初めて盛り込まれていることから、予算確保を狙ったものとも思えない。
(※本記事は「自治実務セミナー」(第一法規)2018年11月号より転載したものです)