公共サービスの「消費者」化
ところで、今難しいのは、多くの住民の方が公共サービスの消費者としては非常に敏感になっているということです。消費者というのは、良いモノをより安く供給してほしいということを求める存在で、供給する側がどのようにしてそれを実現するかを理解する必要はありません。市場で競争がある中では、消費者のそういう欲求にうまく応えることのできる供給者が成功していきます。とはいっても、企業としては利益を上げていく必要があ りますから、効率化を進めて、より良いものをより安く供給して、それでも利益を上げることができるよう、必死に努力します。それに対して、競争がなく、税を強制的に納めてもらうことができる政府や自治体は、競争にさらされないから努力をしないと指摘されます。消費者が何を求めているのかを必死に追求する必然性もありません。
この指摘にも耳を傾けるべき面がないわけではありません。自治体も住民のニーズにより注意を払い、サービスの受け手の視点に立った改善を進める余地がありますから、消費者としての視点から住民が行政に対して様々な要求をしたり、批判したりすることによっ て現状の問題点を改善する効果が見込めるでしょう。しかし、今、自治体が直面している 課題は、人口の減少と急速な年齢バランスの変化です。経営資源が縮小する中で、増大する行政ニーズに応えていかないと、その地域での生活の質を確保していくことができない 中で、政策運営を強いられているのです。限られた政策資源をシフトしながら、今後も維 持していくべき公共サービスを確保し続けるための選択を日々迫られています。
消費者が関心を寄せるのは、自分が欲しい商品について、より良いものをより安く得られるかどうかということです。供給者がどのように経営資源を配分してそれを実現してく れるのかを問う関心も必要もありません。それは企業が努力すればよいことです。しかし、企業についても、株主の立場に立てば話は違ってきます。企業を所有するオーナーとして の観点から、限られた経営資源を最適に配分して、期待できない領域からは経営資源を引き上げて撤退し、利益が期待できる領域に重点を置いて業績を伸ばすことができているかどうかに関心を持ち、うまくいっていない場合には、経営者を交代させて改善を図るなどの関与をしていきます。
自治体における住民の位置付けは、公共サービスを受けるという面では「消費者」かもしれませんが、住民全体の福祉の向上(これからの時代の現実の中では、向上以前にまず 最低限の確保が難題だというべきかもしれません)のために自治体を設置している主権者 という立場でもあります。企業にとっての株主に相当する面があるのです。企業の株主の 場合には、出資して企業を所有することによってその資本が利益を生むことを期待するという立場のオーナーであるのに対して、自治体の住民の場合には、「みんなのため」に欠かすことのできない公共サービスが、市場では提供されないから、住民みんなで一体として自治体を設置し、その公共サービスを確保しているという立場のオーナーということになります。
制度の面で見れば、憲法が地方自治を保障し、地方自治法がその基本的な枠組みを定め、地方税法などによって住民は負担を義務付けられていますが、その仕組みの理念を平たくいえば、みんなのための公共サービスが必要だから、みんなでお金を出し合って地方自治体をつくり、みんなのための仕事を共同で運営するということです。出資者は住民だから、 株主として経営陣を選んで、そして株主総会に相当する場を通して、経営内容をきちんとチェックし、場合によっては経営陣を取り替えながら運営させます。企業経営の場合は、うまくいかなかったら、株価は下がり、下手したらつぶれます。株主はそうならないように、オーナーの立場から経営に関与するわけです。ところが、地方公共団体は企業のようにはつぶれないので、オーナーとしての関与を誰かに任せておいても平気な気分になってしまいがちです。でも、その結果、最悪の場合には、自治体としての経営破綻が起こり、最低のサービスと最大の負担という組合せに耐えながら経営再建をすることになってしまうかもしれません。財政破綻した自治体の再生、再建というのは、そういうことなのです。
日本の地方財政は、国からの移転財源が大きく、その自治体の住民が納めている税だけで財源が賄えている自治体が極めて少数であることから、自治体とそのオーナーとしての住民との関係性は分かりにくくなっています。しかし、自治体にとっての住民の立場は、本質としてはまず「供給者を保有しているオーナー」なのです。自分たちのために必要な事務を、共同事務としてさせるために自分たちが地方自治体という組織を設置したからに は、財源を保障する責任がある、つまり納税義務があるというわけです。
だから、全員が集まる場がもし持てれば株主総会ができるわけですが、なかなかそれも難しいので、代議員を選んで経営の基本的な決定をしてもらっている。ただ、経営のトップについていうと、直接投票で選ぶという関係になります。
昭和30年代まで、市町村議会の議員選挙投票率は8割以上が標準でした。国政選挙の中で相対的に身近でなく、直接政権を選択する意義を持つわけではない参議院議員の選挙は、国政選挙の中では投票率が相対的に低く、全国のほとんどの自治体で市町村議会議員選挙 の投票率よりも低いのが一般的でした。国政選挙でも市町村議会議員選挙でも、その後徐々に投票率は低下していくのですが、市町村議会議員選挙は現在までずっと下がり続けていて、全国平均では50%台ぎりぎりにまで至っています。それに対して、参院選では平成10 年代頃から50%台半ばから後半で推移するようになり、下げ止まって今日に至っています。都市郊外などではかなり早い時点から市町村議会議員選挙の投票率が参院選を下回るよう になり、今ではほとんどの自治体で下回るようになってしまいました。現代の日本人の感覚では、むしろなぜ市町村議会議員選挙が国政選挙よりも高い投票率であったのか不思議 に感じるほどかもしれません。
昭和30年代頃までは、自治体の公共サービスに足りないものがたくさんありました。今では信じられないかもしれませんが、昭和30年代頃までは、自治体全域で一般ごみの収集が行われていないことが普通でした。農村的なエリアでは、ごみはそれぞれの家で処理すれば足りたから、自治体のごみ収集の対象になっていませんでした。団塊の世代が児童生 徒だった頃には、子どもは多いのに学校予算が足りないので、教室で使う消耗品の予算も足りず、各校のPTAが必要額を寄附して賄うというのが普通でした。当時の議事録を見ると、「公衆衛生の向上のためにも市域全体で一般ごみを収集すべき」とか、「公教育として の義務教育に必要な消耗品は公費で賄うべき」というような一般質問が目につきます。もちろん、その後これらは解消されて今日に至っています。その過程で、地元から出た議員が大きな声を上げていた地区から順番に解消されていくということもありました。そんな環境下では、地元から力のある議員を送り出して、早く問題を解決したいという関心が住民の多くに共有されていて、それが高い投票率に反映されていたわけです。
今では、そういうレベルでの必要はどこでも普通に満たされるようになっていて、地域間で新しい公共サービスの実現に向けて優先順位の奪い合いを必死でやるという構図はほ ぼなくなりました。「自分の生活は行政の世話になどなっていない」という感覚を持ちながら、当たり前のように毎朝ごみを出し、自治体が収集しているという光景が一般的になっ ています。
特に自治体の世話になっていないという認識でいる人の多くは、自治体よりも自分の力が頼りになると思っています。自分の老後に年金を受け取れるかどうかは怪しい、税や年金保険料を納めておくよりも、少しでもそういう負担を軽くしてもらって、浮いた分を自分でためておいた方がきっと安心だと感じている人も少なくありません。かつてのような政策へのニーズが原動力になった自治体政治への関与が薄くなるわけです。