げすの勘繰り
この国は長い間、官僚主導の国といわれてきた。政策立案は各省庁の官僚に任せられ、それを大臣、首相らが追認していくというシステムだ。だが、この制度では官僚が省益ばかりを優先し、国家を危うくする恐れがある。そこで政治主導が盛んにいわれ始めた。
特にバブル崩壊後の1990年代以降、財政事情が悪化して痛みを伴う改革が必要となった。予算を削減し優先順位を付けるには、国民の審判を受ける政治家だからこそ、責任を持って判断することができ、しかも、その決断に正当性があるとされる。その結果が誤っていれば、選挙の洗礼を受け落選することになるのが最大の理由だ。
政治主導とはもともと、こういう思想であった。官僚らの人事権を握り、しかも与党内でも比類ない力を得ることで、安倍政権の現状は政治主導の一種の完成形ともいえる。だが、今国会での現状を見ると、それはごり押しであり、自らと取り巻きへの利益誘導と誤解される恐れさえある。
森友問題では情報公開と真相究明を首相は指示すべきだった。さらに獣医学部の新設に関しても「腹心の友」がすることだけに、「李下(りか)に冠を正さず」である。後から疑いがかからないように、複数の学校で競わせて決定するなり、もっと時間をかけるなりすべきであった。問題の真相はまだ明らかになっていないが、多くの国民が不信感を持っているからこそ、最近の世論調査で、安倍内閣の支持率が急激に落ち込んでいるのである。
自民党の高村正彦副総裁は「げすの勘繰り」と評したが、政治主導であるからこそ、勘繰られても十分に説明できなければならない。後からの検証に耐えるものにしなければならない。それが規範である。透明性を失った政治主導は、国民にとっては政治の暴走、独裁と同じ意味を持つことを肝に銘じるべきである。