2025.08.25 政策研究
第65回 経営性(その5):新公共経営(NPM)
新公共経営(NPM)
このほかにも、行政団体の経営性の悪さについては、様々な理由があり得よう。その中で、行政団体の経営性を確保するために、人為的・擬似的に民間企業的な経営性を導入しようとする工夫が試みられてきた。こうした一連の動きが、新公共経営(NPM:New Public Management)と呼ばれる動きである。NPMは、もともとは、1980年代以降のイギリスの行政改革の試みに与えられた総称である。しかし、日本の自治体の経営改革にも援用されてきた。
当初は、民営化・民間払い下げや準市場化が中心であった。いわば、行政をなくしてしまい、民間営利団体に変えてしまうことである。イギリスの自治体の場合には、公営住宅の民間払い下げが典型である。公営住宅は、自治体が経営するから、必然的に経営性が確保されない。公営住宅を払い下げれば、購入者がいわば資本家=所有者=経営者として、自己の住宅を自己の利益を最大化するように経営するようになるはず、というわけである(ポピュラー・キャピタリズム)。もっといえば、経営をできない住宅所有者は、破綻して、住宅を放棄し、より効率的な経営を達成できる人間が購入して、経営性が確保される。あるいは、誰も住宅を購入しなければ、住宅自体が空き家になって、市場から退場することになる。
しかし、不可欠な公共サービスを完全に民営化ができるとは限らない。例えば、確かに、公営住宅を提供しなくても、住宅扶助のような住宅費用を現金給付すれば、行政は住宅を保障することができる。とはいえ、住宅規制は民営化ができない。そもそも、財産権が保障されている以上、実は住宅をどのような形態で建築するかは、本来は民間あるいは土地所有者の自由である。しかし、それでは、当該住宅の所有者本人は良くても、周辺に悪影響を与えることで劣悪な住宅・生活環境が生じたり、あるいは、危険な住宅が建築・放置され、周辺又は本人に悪影響を与えるかもしれない。それゆえに、行政による住宅規制が必要になることがある。こうした行政の作用は、民営化ができないのである。もちろん、住宅規制のルールを執行・履行確保する事務を民間企業にやらせることはできる。もっといえば、民間企業自体が、住宅規制の自主ルールを定めることもできる。この点は、民間企業又は財産権者が決定するルールが適切なのか、行政が決定するルールが適切なのか、という問題に帰着する。しかし、これは、通常いうところの経営性の問題ではないだろう。
日本の自治体とNPM
NPMにはいろいろな要素があり得るが、日本ではしばしば市場機構の活用と同義とされてきたところがある。しかし、NPMの概念はもう少し広く、2000年前後に、①成果志向、②組織内分権、③市場機構の活用、④顧客志向の四つの構成要素を一体的に導入することで、行政組織における経営・運営の効率化を志向したものと整理された(1)。つまり、「権限を付与された職員(組織内分権)」が、「顧客と向き合い(顧客志向)」、「外部の力を上手に活用(市場機構の活用)」しつつ、「成果を導出する(成果志向)」というのがNPMの理念であり、循環構造である。
顧客志向あるいは住民志向は、「お上」としての行政が苦手とするところであり、理念としては重要である。しかし、民間企業に直面する消費者と違って、行政職員に対面する顧客・受給者・申請者・被規制者など、それ自体として、充分に正統に意思決定できる主体ではない。
民間取引では、顧客は嫌ならば取引しなければよい。顧客志向にならなければ、民間企業は商機を失うことになる。しかし、行政の場合には、顧客の要望に応じることは、公平性・公益性の観点からあってはならないこともある。むしろ、顧客の要望は、不当要求、住民エゴ、カスハラ、ゴリ押しのこともある。行政サービスの決定は、組織的/集団的に、すなわち、建前的には、住民全体の代表によってなされなければならないので、面前にいる人に対して顧客志向ではあってはならないこともある。結局は、顧客志向とは、行政が組織的に顧客志向と考えるルールや基準に基づく処理になってしまう。こうして、規則偏重で杓子(しゃくし)定規の行政の特質が、「顧客志向」の看板で強化されるだけである。いわば、顧客志向と反官僚制・規制緩和を唱導するNPMや新自由主義の下で、逆説的に「ルールのユートピア」(グレーバー)になる。
そのため、成果志向、組織内分権、市場機構の活用が残される。前二者は組織内分権した上で成果で管理することである。そこで、以下では、市場の側面と、分権・成果の側面とに分けて、論じていきたい。
