2025.07.25 政策研究
第24回 地域コミュニティと議会
佐藤竺とコミュニティの考え方──1980年発行の『コミュニティをめぐる問題事例』
次に、「報告」にも委員として携わった佐藤竺のコミュニティの考え方を確認する。佐藤は、自らが編著者となっている1980年発行の『コミュニティをめぐる問題事例』の「はしがき」において、「都市化の急進展のもとで、新たな意味での住民の相互交流や連携感を生みだすためのコミュニティづくりが、全国各地の多くの自治体で中心課題の一つとされている。コミュニティは、いうまでもなく、住民の自主的な活動のなかから生まれ育ってくるものではあるが、同時にそれを促進するための自制的な最小限の行政施策をも必要とする。したがって、コミュニティ施策はどうあるべきかは、なかなかむずかしい問題である反面、コミュニティ運動の死命を制する重要性をも有する。またそれとともに、コミュニティ施策は、他の行政施策と並列的な新規のものではなく、すべての行政を円滑に推進できるようにするための一種の基盤的行政として位置づけられるべきものなのである」(佐藤 1980:1)と述べています。これらのことは、「コミュニティ政策の固有性(特異性)」を表しているといえます。
また、同書の「序──コミュニティ問題の理解のために」の中で、「報告」について、「その後のコミュニティ施策の展開をいかに触発したとはいえ、この小委員会報告書は、しょせん理論的段階の域を出るものではなかった。その点で、実践への大きな前進を生み出したのは、この小委員会報告書を受けて立った自治省のモデルコミュニティ構想であった」(佐藤 1980:2)とも述べ、モデルコミュニティ構想が実践的効果を発揮したとの認識を示しています。そして、「モデルはたとえ失敗例であってもよく、その失敗の原因を検討して他山の石として利用してもらうことに意義があるという意向を確認して、参加することにした」(佐藤 1980:3)と、佐藤がモデルコミュニティ構想の委員になったことを述懐しています。さらに、「今日ではこの言葉(=コミュニティ)は日本の風土に定着した観がある。だが、この言葉自体は、あたかも『国家』とか『公共性』とかがそうであるように、基本的な性格のものであるが故に、使う人によって異なった思想や理念、願望が盛り込まれている。したがって、その定義となると、おたがいに誰もが満足できる内容のものを提示することは、とうてい不可能とみてよいであろう。……これまでコミュニティ施策に対して加えられてきたさまざまな批判のかなりのものがそうであるような性急な結論だけは避けた方がよかろう」(佐藤 1980:6-7)と述べています。これらのことは、換言すれば、コミュニティ政策は「基本性」「難解性」「定義多様化の必然性」「求められる長期的視点」を持つといえます(なお、佐藤は、「今にして思えば、この研究会に参加したからこそ全国各地のモデル地区やその他の活動から実に多くのことを学びえたのであり、深く感謝している」(佐藤 1980:4)と、研究者として、その立ち位置を示しています)。
このようなコミュニティは、現在どのようにとらえられているのでしょうか。次節以降では、コミュニティに関する近年の議論を見ていきます。
地域コミュニティの繊細さ、現状の地縁団体の問題、自治体政府の役割
今井照は『地方自治講義』の中で、「市民の自由な意思に基づく会員制組織としての地域コミュニティはこれからも重要な役割を果たすでしょうが、三鷹市職員であった秋元政三さんによれば、そこには、①参加や退会の自由、②民主的な役員選出、③自発的、自主的活動、④主として公共的活動、という4条件が求められるのです」(今井 2017:167)と述べています。その上で今井は、「私たちは生きていく上で何らかの仲間に属している。その大部分に広義の地縁性がある。地縁団体に一元化するのではなく、こうした大小さまざまな広義の地縁性を持った網の目を形成することで、いざというときの自分の生活を支え合う。それが現代における地域コミュニティのイメージです。一元化されていないので網の目からこぼれる人たちがいるかもしれない。しかし現状の地縁団体でもこぼれる人は出てくるので、少なくともそれだけよりはこぼれる人が少なくなるはずです。網の目からこぼれる人たちは行政が直接支援するしかない。それは生命と安全を使命とする自治体行政の役割です」(今井 2017:168-169)と、現代における地域コミュニティと現状の地縁団体ごとの網の目の大小(繊細さ)と、自治体政府の役割を指摘しています。
そして、今井は地縁団体の参加に三重の誤りがあるとし、「第一には、……地縁団体は世帯単位の構成なので世帯主の意見に偏りがちになり、市民個人の意見の集約として相当に不十分であること、第二……は、地縁団体の機能縮小を見過ごすこと、第三には、地縁団体の網羅性、非選択性という性格を、自治体行政が陥りがちな『全戸掌握主義』に結びつけてしまうことです」(今井 2017:193-194)と述べています。
これらのことは、個人差があること、家庭差があることを前提とすれば、万人の意見を確認する必要があること、個人や個々の家庭における問題は千差万別であり多様であること、コミュニティの出入りはあくまでも自由であるのに往々にして強制的になっていることから、妥当な見解であるといえます。今日でも、報告(「コミュニティ─生活の場における人間性の回復─」)の考えは、望ましい方向を向いているといえそうです。
