2025.04.10 まちづくり・地域づくり
第4回 お焚き上げ
長寿命の公共施設の意義
市長に就任した年の2010年8月に、全国市長会の海外都市行政調査団派遣で福祉高齢者対策、街づくり都市計画等調査を目的に北欧に行ったとき、数百年前の建築物が現在も公共施設であったり、商用施設として活用されているのに驚かされた。歴史の重みとその地域の文化を醸し出す仕掛けがそこに潜んでいるのではないかと思った。今風にいえばファシリティーマネジメントである。日本にも法隆寺や正倉院はじめ神社仏閣には千年、数百年の歴史のある建造物があることを参考に見直すべきではないだろうか。
くしくも「お焚き上げ」した作業小屋も、最新の注意をして保守管理をすればそんな建物になったかもしれない。この作業小屋に物語がある。1912年、大田原の金丸原に宇都宮に駐屯する第14師団の練習場として兵舎が建設され、習志野から予備病院、捕虜収容所も移築された。1934年、所沢陸軍飛行場の不時着場が建設され、1935年に所沢陸軍飛行学校の金丸原分教場となり、金丸原飛行場として整備された。大田原には金丸原飛行場だけでなく中島飛行機宇都宮製作所大田原分工場もあった。戦争も終わろうとする1945年8月13日、大田原は、空襲の格好の標的となる。郷土史家・大野幹夫氏の「とちぎ炎の記憶」(1)によると、この日は4回の空襲があった。近所の若者も一人が亡くなり、私の家も母屋と納屋が全焼した。
空襲に遭った金丸飛行場だが、焼け残った兵舎もあった。600平方メートル程度の兵舎を戦後譲り受けたものが、私の作業小屋である。1912年当時のものなのか、1935年に建築された兵舎なのかは分からないが、1912年のものであれば113年前の建物、1935年であれば90年前の建物となる。
我が家には、空襲で焼け残り、東日本大震災の大きな揺れにも耐えた1894年築の土蔵がある。今回の「お焚き上げの難」からも逃れた。130年利用していることになる。当時の建設費は分からないが、昭和、平成と幾度かの大規模修繕を行い、用途は変わったが今も現役だ。土蔵は火事にも震災にも強い。継承者に恵まれれば、150年、200年と大切に守ってくれるだろう。年を重ねるにつれ愛着が増していくことを期待している。
公共施設を建設するときには、50年程度で解体新築の発想は避け、より良い施設を長期に渡って市民に提供するように知恵を絞ることが必要と考える。それなのに、その価値を毎年減価していくのは、市民に申し訳ない。利益を目的としている企業であれば、建築費用を収益に対応させて経費回収の道理はある。利益を目的としない行政にそのまま持ち込むのでは、芸がない。末永く利用できるように修繕を計画し、費用を引き当てることが重要だ。公共施設を長く利用することで、市民負担を軽減し、福利厚生、教育、新たな産業育成に予算を回すことができる。市民生活の幸福度を高め、地域再生につなげるためには、市民のサイフの余裕を増やしていかなければならない。市民の負担である税は、小さくしていかなければならない。そのためにも高層ビルが林立する都市への一極集中を是正し、DXを活用した全国至るところに住み続けることができる公共施設再配置を図らなければならない。
ウクライナやパレスチナの町が破壊されている映像が放映される。破壊は誰の得にもならない。破壊がなければ、復興に使われる大量の建設資材は、別の価値ある用途に使われるだろう。
単年度予算が行政の特徴だ。公共財は市民に提供されたものであり「首長の貸借対照表」に計上されるべきモノではなく、「市民の貸借対照表」に計上されなければならない。首長の貸借対照表に、公共財の修繕計画を織り込むことで、公共財は将来世代に継承する財として位置付けられる。市政の現状と将来を市民と共有することになる。市政の効率化により市民の負担が小さくなっていけば、大田原市も人が集まる町になる。そんな市政を実現してもらいたいと、市政から退いても願っている。
(1) https://tsensai.jimdofree.com(2024年10月20日確認)