2025.04.10 まちづくり・地域づくり
第4回 お焚き上げ
前大田原市長 津久井富雄
お焚(た)き上げ
人生には様々な出来事がある。私事だが、一昨年5月2日に妻を亡くし、心の支えを失った寂しさを仕事に夢中になることで忘れようとしていた。そんな日々が過ぎ、昨年8月の月命日が過ぎた7日に私は大失敗を犯してしまった。
その日、私は、40年来愛用していた4トンユニック車(クレーン付きトラック)の荷台修理をした。飼料、資材、機材を何でも運ぶことができ、高いところにも積み下ろしができる優れモノだ。荷台の床は鉄板張りにして床板を補強していた。40年も使うと鉄板に穴が空いたり、めくれたりしていたので、これを切断、溶接して補修をしなければならないと考えた。
市長よりも畜産に関わった期間は長い。機材の修理はお手の物。ユニック車を使い牛舎周りの片づけをした後、荷台の鉄板を補修した。午前中30度を超える灼熱(しゃくねつ)の下、補修箇所のすり合わせのためカッターで切り終わる頃に猛烈な豪雨となった。慌てて家に帰り、昼食をとった。午後4時を過ぎた頃、雨もやみ青空が見えたので今日中に修理を終わらせようと溶接部床板に水をじゃぶじゃぶとかけるのを忘れ、鉄板の溶接に入ってしまった。水をかけたのは溶接終了後、荷台の上からも下からもしっかり水をかけた。
作業が無事終了してホッとし、風呂に入りさっぱりして家族会でビールを飲みながらの楽しい夕食も終わり、気持ちよく寝床に入った夜9時頃、「車が燃えている!」との声に驚き飛び起きた。もしかして溶接が原因かと思った瞬間、それが現実となっていた。
すでにユニック車は炎の中で黒くなり、作業小屋に火が燃え広がり、牛舎にまで火が及び始めていた。慌てて作業小屋に飛び込み、必死に消火を試みたが、火の勢いは止まらず、作業小屋は全焼した。作業小屋には妻との思い出が詰まっていた。私は減反政策が始まった頃、農業で収益力の高いダリアの球根栽培を結婚前から始めていた。作業小屋で出荷調整をし、そこに彼女が手伝いに来てくれた。結婚(1973年)してからは米、麦、ネギ、アスパラの出荷調整を朝方4時頃までしていたのがこの作業小屋であり、雨の日は作業台を使って卓球場となったり、子どもたちが生まれてからは親子の遊び場であった。作業小屋に置かれた修理道具、測量器具、木工道具、小物農具、買ったばかりの大型農具レベラーというほ場を均平にする機械(試運転一度の使用で焼けてしまった)等は、私の仕事と趣味と実益をかなえてくれる資材置き場でもあった。
幸いにもけが人や類焼の被害はなく、牛も無事であった。消火活動が終わり、日付も変わった朝4時頃、ぼうぜんとしている私に、子どもたちが「お母さんの供養のお焚き上げだと思って諦めなさい」と慰めてくれた。この言葉に、妙な安堵感に包まれた。小さなミスから大惨事を招き落ち込んでいた私に、妻が「残りの人生を焦らず、一つひとつ大切にしながら楽しみなさい」といってくれているように感じた。その瞬間、支えてくれる家族の存在に涙した。災いを経て家族の絆が一層強まり、新たな希望が生まれた。