2024.11.25 政策研究
第56回 組織性(その2):破綻・再生
住民の逃散能力
江戸時代には、年貢負担が過酷なときには、百姓は逃亡することで年貢負担を回避しようとした。その結果、領主も年貢を得られず、百姓も生活が破綻するので、双方に不利益である。そこで、年貢は村請制として、個々の百姓ではなく、村という農民集団に課した。こうすれば、個々の百姓が逃亡しても、残った村=農民集団が負担するしかないから、領主にとって年貢は確保できる。しかし、村全体の百姓が逃亡すれば、年貢は確保できない。他方、村=農民集団としても、個々の百姓の経営破綻と逃亡は、残った他のムラ人の負担であるから、個々の百姓の経営を支援する動機もある。しかし、村内の百姓・農民間での経営協力(いわば、農業協同組合)が困難であれば、村全体として逃亡するのが合利的であろう。
アメリカで債務調整が導入されたのは、住民が逃散することが想定されているからである。貸し手の債権を全額保証すれば、住民負担になるしかないが、住民が逃亡すれば、結局、貸し手の債権回収もできない。それゆえ、債務調整を貸し手に受諾させることが可能になる。日本において、「住民負担型暗黙の政府保証」が導入されたのは、住民が逃散することはできないだろう、と国が住民の足元を見ているからである。もちろん、例えば、現実には夕張市からも住民は流出しているが、激減したわけでもない。
住民に郷土愛・地元愛があれば、財政破綻したからといって、逃亡するとは限らない。あるいは、生活面のネットワークなどの様々な無形資本があれば、自治体の行政サービスがなくなっても、ネットワークのない自治体に転居して、そこの自治体の行政サービスを受けることが、生活の改善になるとはいえない。そもそも、経済力の弱い住民は、移動費用の重さを感じ、転出が困難である。ある程度、経済力のある住民ならば、逃散できるのである。しかし、財政破綻をするのは、要するに、住民には平均的に経済力がないからなのである。となれば、財政破綻をするような自治体からは、住民の逃散も起きにくい、と想定される。「逃げ場」のない住民であれば、あるいは、自己ネグレクト的に「逃げる気」が奪われた住民であれば、「住民負担型暗黙の政府保証」が課せる。こうして、「胡麻(ごま)の油と住民は絞れば絞るほど出るもの」となった(7)。