2023.11.27 政策研究
第44回 固有性(その1):らしさ
東京大学大学院法学政治学研究科/公共政策大学院教授 金井利之
「○○らしさ」
自治体では、「○○」という固有名詞を冠して、「○○らしさ」や「○○ならでは」あるいは、「○○の特性を生かして」などと称することがある。とはいえ、「○○」に自治体の固有名詞が入っても、それが、自治体政府(地方公共団体)を指すとは限らない。地名や地理的空間や自然・建築景観などを指すこともあれば、「○○」地域社会(文化や行動パターン)などを指すこともある。
また、「○○」の住民集団を指すこともある。さらに、「京都人」、「京女」、「江戸っ子」、「江戸者」、「浜(はま)っ子」(1)などのように、自治体の有無とは関わりなく、人間集団には特別の用語があることもある。もっとも、「江戸っ子」は、東京都民や東京特別区住民のことは指さず、父母ともに三代連続での江戸・東京暮らしをしているという生粋の「旧々住民」を意味する。江戸・東京は地方圏からの国内移民のまちであり、東京の住民は基本的には地方圏出身者である。また、江戸・東京自体が開府400年程度であるから、地方圏や京都で見られるように「十何代」という地着きの人は稀有(けう)である。そこで、三代程度こそが、もっとも「江戸っ子」らしいのであろう。とはいえ、「金銭に淡白で威勢がいい」などの行動条件が課されることもある。ともあれ、「○○」が固有名詞であれば、定義からして、唯一無二の存在である。
自治体に限らず、「らしさ」などの自己表出や、他者からのラベル付与は、ときに問題をはらむことがある。なぜならば、「○○らしさ」などは、具体的に何であるかを言語化していないので、無内容なトートロジーであるからである。それゆえに、何かを意味することも可能であるが、何かを意味しないことも可能である。論ずる者、つまり、「らしさ」、「ならでは」などを定義する側によって、変幻自在かつ融通無碍(むげ)である。逆に、論じられる者、つまり、「らしさ」を定義される側にとっては、いかなる反論も可能にならない暴力的なことである。
人間集団と「○○らしさ」
特に、「○○」が人間集団を指す場合には、波及効果は深刻である。例えば、「男らしさ」、「女らしさ」といわれても、そもそも、その内容が何を指すのか不確定である上に、内容が確定されたとしても、全ての「男」に「男らしさ」が当てはまるわけでもないし、ある個人が「男」、「女」の二項区分に入るとは限らない。「男らしさ」とは、「無口で暴力的」だと確定されれば、そもそも、その内容に異論が噴出する。「男らしさ」が「自動車を運転すること」だと確定されたとしても、そもそも、全ての男性が自動車を運転しなければならないわけではないし、自動車を運転しない男性は「男らしくない」といわれても不愉快である。
こうした波及効果は、自治体の住民集団に適用されても、同じように起こる。仮に住民集団内の多数派が「らしさ」の具体的な中身に納得したとしても、住民集団内でも相当数の異論があり得る。さらには、多数派にとっても、納得し難い具体的なレッテルになる場合には、排除や差別の温床である。
例えば、「東京らしい」などといわれても、「東京風を吹かせて」ということになれば、不愉快なレッテル貼りになることもある。もちろん、当人が唯一無二を「誇り」に感じているのであれば、それはマイナスの評価ではなく、むしろ、卓越性を評価・承認されたと思って、喜ぶこともある。自分と他者の評価によって、プラスにもマイナスにも左右される。「男らしさ」(マッチョ)をあえて露出して、悦に入る自称「男らしい男」、「漢の中の漢」(マチスモ(machismo))もいるからである。「東京風」を吹かせて、「田舎」を見下す、あるいは、「田舎」を嫌がる「東京人」もいる。