2023.11.27 政策研究
第4回 「市民」と「議員が市民から求められる姿勢・行動」
市民化した「現実の市民」の姿としての「行動する市民」「ふつうの市民」の循環・「それなりの市民」
とはいっても篠原がいうように、自律的市民は孤立を避け、その意図を実現するために、自ら他者との関係を持とうとするが、もちろん彼らすべてが常に行動する市民というわけではない。生活世界に住むふつうの市民は他者との間に緩やかな関係を持つが、一定の社会行動をするには「行動する市民(アクティブ・シティズン)」がその媒体となることが多い。そしてふつうの市民があるときは「行動する市民」となり、また「行動する市民」があるときは「ふつうの市民」に戻るという循環を繰り返しています(篠原 2004:153-154)。
また、篠原は、ダール・R・Aの「それなりの市民」という考えを紹介しています。ダールは、現代においては社会の規模の大きさ、問題の複雑さ、マスコミの操作性などを考えると、完全な判断のできる市民を期待することは困難であるが、そういう点については専門家も同様であると。そこで、あまり完全性を求めないで、「それなりの市民」という概念を立てるべきだといっています。市民社会においては、「それなりに良い市民」が増えていけばよいのであって、完全な市民というイメージを想定したら、市民は存在しなくなってしまう。こういう市民は、まず機会ごとの(オケーショナル)、断続的な、さらにパートタイム的市民であればよい。つまり問題の発生したときに政治に参加し、またそれは継続して行うものでなくともよく、参加するときもパートタイム的であればよいとしています(篠原 2004:197-198)。
ここで紹介した、篠原の「行動する市民」「ふつうの市民」の循環という考えや、ダールの「それなりの市民」という考えは、前述したところによれば「規範概念としての市民(=常に完全完璧な市民)」ではなく、市民化した「現実の市民」といえるのではないでしょうか。例えば、「事情により自治会活動ができなくても、事情が解消したら活動する」こと、「自治会活動をしていたが、事情により自治会活動を休止する」ことは、市民化した「現実の市民」の姿であるといえます。また、行動(活動・提供)には、役務・金銭・知識・アイデア・技術・ネットワーク等、様々なものがあります。できることを探すことも大切です。生涯にわたって、何らかの理由で、行動ができない人・行動ができなかった人であったとしても、「豊かで」「柔軟な」「感謝する」心を持つことにより市民化した「現実の市民」になりえるのではないでしょうか。市民になることを諦めてはなりません。
「委ねるだけの人」「聞くだけの議会・議員」でいいのか!
もちろん、市民は、これまで繰り返し述べてきたように、「自主的主体的に権利を行使し義務(責務)を果たすために活動する人」であり、「委ねるだけの人」では市民と呼ぶことはふさわしくありません。同じように、「聞くだけの議会・議員」といわれてしまうような場合、本当は議会・議員と呼べないのではないでしょうか。
「議会・議員は聞くだけ」「聞くだけの議会・議員」といわれないためには、議会・議員が市民の声に対して、適切に応答することが求められます。具体的には、①市民と話し合うこと、②その話し合いの後に議会で討議すること(議会で討議するときにも、議場で関係市民の声を詳しく聴いたり、質問しながら訊(き)くこと)、③市民に応答する時点では討議の経緯・結果・理由等を漏れなく示すことが必要です。
その際、応答する内容が市民の意向に沿わない場合でも、「できないことはハッキリとできない」ということを、「検討(方針決定)ないし実施までに時間・年限を要する場合」にはそのことを、理由とともに明示し、公表することが大切です。そして、これらのことは、後日確認できるよう文書にして残すとともに、広く議会だより・ホームページ・SNSなどで周知することが重要です。
市民と議会・議員をつなぐ媒介(インターフェイス)機能として応答することは大切です。意見交換会・議会報告会も応答に大きな役割を果たしますが、「議会だより」の内容や「議場」の傍聴席のあり方も、媒介機能として検討することが大切です。具体的には、「議会だより」に議員別の審議結果が掲載されているものの、議案名と賛否だけに限られていて、議案の概要や賛否の理由が載っていないことは、議会から市民への応答が中途半端なものとなってしまうからです。「議場」の傍聴席については、本会議場・全員協議会室・委員会室のいずれにおいても傍聴席の十分な確保が求められます。委員会室は傍聴席の確保が足りないところが少なくないのではないでしょうか。