2023.01.25 政策研究
第34回 競争性(その3):資源・負担源競争
政策の事実上標準
以上のような自治体間の資源・負担源をめぐる競争は、ある意味で、自滅的である。自治体は、開発政策を好むとしても、相互の競争が激化すれば、企業・富裕層を惹き付けるために、際限ない支援策を展開せざるを得なくなる。つまり、企業・富裕層は、自治体の足元を見て、もっと支援をしないのであれば、他の自治体に転出すると脅しをかける。実際、他の自治体は虎視眈々(こしたんたん)と誘致を狙っている。しかし、このような無謀な競争を続ければ、結局、企業・富裕層は、個体の自治体にとっても、自治体個体群の全体にとっても、何のメリットもない存在になる。つまり、資源として吸引したにもかかわらず、それ以上の支援策を求める負担源になってしまうからである。こうして、「底辺への競争」となる。
他方、福祉政策をめぐる競争は、自治体としては、周辺自治体と大差のない政策にしておけば、問題が生じない。もちろん、福祉政策を引き下げることで、域内から負担源を追い出しにかかることはあり得よう。しかし、一つの自治体でそれを行うことは、いわば周辺の大多数の自治体を敵に回すことであり、様々な抵抗が発生する。このような「わがまま」を他の自治体が許すとは限らない。もちろん、対抗措置として自治体が福祉政策を切り下げて、それを全ての自治体が行う「底辺への競争」が起きるかもしれない。
結局、その場合には、全ての自治体を通じて、富裕層や企業が過度に優遇されて、貧困層が放置されるという高開発政策・低福祉政策がまん延する。そのような状態が、多くの自治体にとって許容できない水準であるならば、一定程度の開発政策・福祉政策の水準が求められる。この水準が、自治体間の事実上標準で構築されれば、多くの自治体は、その標準と大差ない状態で開発政策・福祉政策を展開し、大差ない政策によって問題を回避するだろう。また、こうした標準が国主導で構築されるかもしれないし、自治体が国に対して標準を示すように圧力をかけるかもしれない。資源・負担源をめぐる競争は、周辺と近似した政策にするというだけであり、開発政策・福祉政策の水準を、高くするか、低くするかは、どちらでもよい。いわば、資源・負担源競争によって政策への同調圧力が生じるだけである。
横並び競争とにらみ合い
つまり、自治体間の資源・負担源競争が激しくても、ある水準に張り付くという政策への同調圧力も作用する。自治体間の競争性は、相互の政策的な違いを打ち出す方向で作用するのではなく、相互の違いを減らす方向で作用する。これが、自治体間の「横並び競争」である。横並び競争は、他の自治体より政策水準が低ければ、引き上げる圧力に作用する。他の自治体より政策水準が高ければ、引き下げる圧力に作用する。
もっとも、この競争関係は、実は両方向で作用しうる。初期状態において、Xの政策水準Aが高く、Yの政策水準Bが低いときに、Xの中では引き下げ圧力が作用するが、Yの中では引き上げ圧力が作用する。その結果、Xの政策水準Aで横並びになることもあり得るし、反対に、Yの政策水準Bで横並びになることもある。AとBとの中間的な政策水準Cで妥協的な均衡が生じるかもしれない。水準Aが望ましいのであれば、互いに向上する競争が望ましいといえよう。しかし、水準Bが望ましいのであれば、互いに無駄なことをやめる方向での競争が望ましいといえよう。どちらが望ましいかは、まさに政策判断の問題である。
そもそも、こうした初期状態がなぜ生じたのか、という問いがあろう。自治体X、Yの政策判断とは全く無関係に、「自然」に「意図しないままに」こうした政策水準になっていることもあろう。しかし、政策とは、通常は意識的な判断であり、Xが政策水準Aを選択したのは、少なくとも、過去のXにおいて、BよりAが望ましいという政策選好があったことになる。Yでは、AよりBが望ましいという判断があったわけである。このような初期状態を生み出した政策選好が変わらなければ、X、Y間で競争があったとしても、簡単には同調圧力は作用しない。
Xとしては、自らがBに引き下げるのではなく、YがAに引き上げてくれればよいだけである。Yとしてはその逆であり、XがBに下がってくれればよいだけである。その意味で、同調圧力の横並び競争の構造の中で、にらみ合いのこう着状態が起きる面もある。他の自治体がやっているからといって、自分の自治体でその施策を採用するとは限らない。他の自治体がやっていないからといって、自分の自治体でその政策を廃止するとは限らない。ただし、これは最後には両者の衝突が生じるチキンゲームになるとは限らない。多少の水準の相違を維持したまま、そのまま続くこともある。
(1) もちろん、住民が自治体の主人公であり、それを資源や負担源として見る合利的自治体の為政者のスタンスは、まさに本末転倒であり、実に問題がある思考枠組みといえよう。住民に行政サービスを提供するのが自治体の仕事である。行政サービス提供を負担と捉え、負担削減=行政サービス削減を自治体の利益と捉える発想自体が、ゆがんでいる。同様に、住民は自治体為政者に方針や指示を与える存在であって、自治体が縄張りの中でかき集める資源ではない、はずである。むしろ、自治体職員こそが、住民から見れば、行政サービスを生み出すために必要な人的資源というべきである。とはいえ、自治体為政者から見れば、人間は資源であり負担源である。あるいは、ある住民から見れば、自分以外の住民は、資源であり負担源である。ある住民は、他者を資源や負担源であると見る為政者目線を内面化することはあろう。現実には、自らが、資源や負担源として、為政者や他の住民から、モノのように見られているのかもしれないのに、である。
(2) ちなみに、『徒然草』では、友としたくない者は、①上から目線の者、②若者、③非病弱者・屈強者、④酒好き、⑤獰猛(どうもう)者、⑥虚言者、⑦欲深者である。友としたい者は、①気前のよい人、②医者、③知恵者である。「友」とは、要するに、自分にとって都合のよい人的資源のことである。今日の自治体の資源・負担源の観点と異同があり興味深い。『徒然草』では若者は忌避されているが、今日の自治体は若い世代に来てもらいたいようである。また、病人が増えることは好んでいないようであるが、『徒然草』では、むしろ体が弱いぐらいがよく、屈強で横暴な人間の方が迷惑と考えているようである。さらに、富裕層に来てもらうこと自体には意味がなく、あくまで、物をくれるような人、つまり、消費や税負担をいとわない人が大事である。金持ちを優遇措置で引き寄せても、吝嗇(りんしょく)であれば、来てもらう意味がないわけである。金持ちはケチ(消費性向が低い)だからこそ金持ちになれるのである。