2021.07.28 議会改革
第20回 地方議会・自治体議会の歴史から学ぶ
6 分権改革以降の自治体議会強化の動き
1990年代以降の地方分権の流れにおいては、自治体議会の強化を図ろうとする動きが国・自治体の双方で見られるようになる。すなわち、地方自治法が頻繁に改正される中で、自治体議会の権限や自由度が拡大されるとともに(22)、住民自治の強化を図る上での議会の役割の重要性が強調される一方、自治体議会においても議会改革の動きなどが活性化してきている。これまで見てきた歴史の中で地方議会や自治体議会が注目され、その活動や強化の動きが活発化するのは、明治初期、戦後初期に続くものであり、近年の動きはそれらへの回帰と見る向きもある。
その歴史を振り返れば、議会は、人々の期待や希望を集めるだけでなく、批判や失望も招きながら、歩みを進めてきたのであり、また、常に発展してきたわけではなく、挫折や後退も繰り返し経験してきたといえる。そして、地方の議会制度の誕生・変遷やそれらをめぐる攻防などを眺めるならば、政府、あるいは時の権力者における議会に対する警戒感や不信感が浮かび上がってくる。そこではいまなお自治体議会に対する懐疑的な見方が根強く存在しているところもあるようにも見える。
もちろん、それは、地方自治を強化する中で払拭されていくべきものではあるが、その一方で、議会の位置付けや役割からする宿命みたいなところもないわけではない。かつてのような中央集権的・官僚主義的発想や愚民観は論外としても、議会は、その同意を必要とし、あるいはその監視を受ける側からすれば、手間がかかり、面倒でうるさい存在なのであり、そこにこそ議会の存在意義があるといえる。
本稿では、地方議会・自治体議会の制度的な歴史を概観するにとどまったが、それぞれの議会においても、それぞれの歴史があり、また、多くの先人たちの奮闘・努力があったに違いない。そして、それらがそれぞれの議会の現在につながっているのであり、成功例だけでなく失敗例なども含め、過去から学ぶことは少なくないはずである。
ただ気にかかるのは、歴史は繰り返すということもあるのであり、現在の社会や政治の状況については、しばしば戦前との類似も語られ、民主主義の危機や全体主義的傾向なども指摘されていることだ。言葉や議論、プロセスの軽視、あるいは異論の排除といった風潮が強まり、どうにかなるといった根拠のない楽観論、責任を曖昧化し責任をとろうとしない無責任体質がはびこり、ポピュリズムの現出とともに、政治に対する不信・不満が高まっている。加えて、完全な普通選挙が実現され、その後も選挙権の拡大や投票環境の整備などが図られてきているにもかかわらず、自治体議会議員選挙における低投票率、無投票当選、なり手不足などその基盤が揺らぐような状況も生じている。そのような中で、自治体議会は今後どのような方向に進んでいくのだろうか。
他方で、議会の役割が重視され、議会改革なども進められるに伴い、自治体議会については、民主主義や自治の基盤として、住民との関係や距離が問われるとともに、住民も取り込んだ議論のフォーラムとなることが求められるようになっており、そのことは自治体議会関係者の共通の理解となりつつある。地域の名望家や特定の年齢層・職業層の議員によって構成され、名望家政治や利益誘導政治が展開されるような状況は克服されてきている(あるいは克服されていく)ものと思われるが、よもやそれにとどまるようなことがあるとするならば、歴史の流れに竿(さお)をさし、逆行するものといえるだろう。
(1) もっとも、その出典は不明であり、また、実際は、“A fool learns from his experience, A wise person learns from experience of others”であったともいわれる。
(2) 地方議会は、一般に地方公共団体の議会を指すものとして用いられているが、本稿では、地方自治の主体である地方自治体の議決機関(立法機関)を「自治体議会」と呼んでおり、地方議会は、旧憲法下の地方団体の議会を指すもの、あるいはそれを含むものとして用いることとしている。
(3) 第1回地方官会議において木戸孝允議長は「民会ヲ開クモノ七県、区戸長会ヲ開クモノ一府二十二県、其議会ナキモノ二府十七県、其余未タ明ナラス」と発言していた。なお、日本大百科全書(小学館)によれば、公選民会は、神奈川、千葉、山形、置賜、三重、岐阜、滋賀、鳥取、兵庫、高知、愛媛、名東などの諸県で見られたようだ。
(4) 福沢は、1879年4月の「薩摩の友人某に与るの書」において「民会なくしては議院ある可らずと雖ども、議院なくして民会ある可し」と述べている。地方における民会において自治の風習を備えた上での国会の開設を主張したものであり、このことも含め福沢の民会重視については、小川原正道「福沢諭吉の議会論─民会論から国会論へ」法学研究83巻11号(慶應義塾大学法学研究会、2010年)参照。
(5) その構成は様々であったが、地方官の判断によって地方民会を開催する府県の数は6割近くに達していたといわれる。
(6) 明治政府において最初の統一的地方制度を定めるもので、郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の総称。1878年の第2回地方官会議・元老院の審議を経て施行された。地域団体として町村を定め、府県会を設置し豪農・豪商層の把握を図り、従前の府県税・民費をそれぞれ地方税・協議費に分割して地方税財源を明確化するなど、府県の行政能力強化を目的とした。
(7) 府県会規則では、「議則」として定足数(議員半数以上)、多数決、公開(傍聴を許す)の会議原則が規定される一方で、府県会の議決の施行には府知事県令の認可が必要とされ、会議中国の安寧を害しあるいは法律・規則を犯すことがあると認めるときは、府知事県令は会議の中止を命じ、内務卿は議員の解散を命じることができるとされた。
(8) 1878年の郡区町村編制府県会地方税両規則施行順序では、区町村はその地方の便宜に従って町村会議・区会議を開くことができ、府県が町村会・区会に関する規則を制定するときは内務卿の認可を受けることが示達されていた。区町村会法が制定された頃には、ほとんどの府県で区町村会が開設されていたといわれる。
(9) 市制町村制は、立案・審議の段階では市制と町村制の二つの法律案とされていたが、その内容に共通するところが多いことから、これを一本化し、「朕地方共同ノ利益ヲ発達セシメ衆庶臣民ノ幸福ヲ増進スルコトヲ欲シ隣保団結ノ旧慣ヲ尊重シテ益々之ヲ拡張シ更ニ法律ヲ以テ都市及町村ノ権義ヲ保護スルノ必要ヲ認メ茲ニ市制及町村制ヲ裁可シ之ヲ公布セシム」という上諭をもって1888年4月17日に法律第1号として公布された。市制町村制は、1911年の改正で、市制と町村制に分けられることとなる。
(10) 議決すべき事件の概目として、条例・規則の制定・改正、歳入歳出予算の認定、決算の認定など11項目が例示されたほか、市町村吏員の選挙権、検閲監査権、意見提出権、選挙等に関する訴願についての裁決権なども有していた。
(11) 市町村会議員の選挙については、区域広濶(こうかつ)又は人口稠密(ちゅうみつ)な市においては条例で選挙区を設けることができるとされ、その後、1911年の改正では勅令で指定する市は区を選挙区とし、その他の市は条例で選挙区を設けることができるとされている。
(12) 府県会議員の選挙権については、その郡区内に本籍を定めその府県内で地租5円以上の納付、被選挙権については府県内に本籍を定め満3年以上居住し、その府県内で地租10円以上の納付が必要とされた。
(13) ただし、特定の多額納税者又は多額納税法人は、公民たる資格に欠けていても選挙権を有するものとされていた。他方、公民に対しては、権利だけでなく義務も課され、例えば、立候補制ではなかった時代には、市町村会議員に選ばれたにもかかわらず、正当な理由がなくこれを拒辞し、又は任期中に退職し、あるいは職務執行しなかったときは、市町村会の議決により、一定期間の公民権停止だけでなく、市町村税の増課も受けることがあるものとされていた。
(14) 明治の先例も考慮し、憲法改正より先に地方制度の改正を行うのが賢明という考え方によるものであったといわれる。なお、第1次地方制度改正における議会関係の主な事項としては、①議員の選挙権・被選挙権の拡大、②議員等の解職請求・議会の解散請求制度の創設、③議会の議決事項の拡大等の権限強化、④それまで名誉職とされ費用弁償のみが行われていた議員に対する報酬の支給、⑤議会による長の不信任議決と長による議会の解散の制度の創設など。
(15) 専決処分の制度は、1881(明治14)年の府県会規則改正(府県会ニ於テ若シ法律上議定スヘキ議案ヲ議定セサルコトアルトキハ府県知事令ハ更ニ其議定ヲ要セス内務卿ニ具状シ其認可ヲ得テ之ヲ施行スルコトヲ得)、1884年の区町村会法改正(府知事県令ニ於テ区町村会ノ議事若シ法ニ背キ又ハ治安ヲ害スルコトアリト認ムルトキハ何時タリトモ区町村会ヲ停止シ又ハ之ヲ解散シテ改選セシムルコトヲ得。前条ノ場合ニ於テ停止又ハ解散ヲ命シタルトキハ更ニ開会ヲ命シ又ハ改選スル迄ノ間区長戸長ハ経費ノ支出徴収方法ヲ定メ府知事県令ノ認可ヲ得テ施行スルコトヲ得。区町村ニ於テ議員ヲ選挙セス又ハ議員招集ニ応セスシテ会議ヲ開クヲ得ス及議定スヘキ議案ヲ議定セス又ハ会期内ニ於テ議案ヲ表決シ終ラサルトキハ前条ノ例ニ依ル)により導入されたもので、それが市制町村制(市長による市参事会の事務の専決処分と府県参事会・郡参事会による代議決を規定)、府県制(府県会が招集に応じないとき・府県会が成立しないときに府県知事は内務大臣の指揮により府県会の議決すべき事件を専決処分できることなどを規定し、次回の府県会での報告も規定)に引き継がれ、頻繁かつ様々な改正を経ながら、現在の制度に近いものとなっていった(1946(昭和21)年の第1次地方制度改正では衆議院の修正により専決処分を行った場合の次回の会議での承認について規定)。なお、地方制度調査会の答申に沿って旧制度と同様とされた地方自治法政府原案では、内務大臣や都道府県知事の指揮を請う仕組みが維持され、GHQの修正意見があったにもかかわらず、内務省は当該指揮権は絶対必要であるとしてそのまま帝国議会に提出されたが、衆議院の修正により当該指揮権は削除されることとなった。
ちなみに、再議制度も、府県会については1881年の府県会規則改正で導入され1890年の府県制でも規定が設けられ、市町村会については1888年の市制町村制で規定が設けられ、その後、何度かの改正を経ることになった。なお、1946年の改正では、議会の違法又は明らかに公益を害する議決・選挙については再議に付さないで直ちに取消しを行い、又は府県知事等の裁決・指揮を請うことができるとする規定が衆議院の修正により削除され、すべて再議に付されることとなった。
(16) その背景には、各省には、それぞれの所掌事務に関しGHQの各部局が後ろ盾となり、内務省と大蔵省その他各省との意見の対立は、民政局と経済科学局その他の局との意見の対立ともなったことがあるといわれる。この点については、自治大学校研究部監修・地方自治研究資料センター編『戦後自治史 第三巻』(文生書院、1977年)86頁参照。
(17) このほか、衆議院の修正の段階では、GHQの修正意見を受け、「議員は選挙人の個人的指示又は委嘱を受けてはならないものとする」という項目(いわゆる命令委任の禁止規定)が加えられたが、貴族院の修正で削除されたことが注目される。前掲注(16)『戦後自治史 第三巻』107頁によれば、府県制46条で「府県会議員ハ選挙人ノ指示若ハ委嘱ヲ受クヘカラス」とされており、内務省は、地方自治法にも同様の規定を設けるとしたが、GHQは、地方自治法政府草案に対するGHQ意見でも「議員は「秘密に」指示又は委嘱を受けてはならないものとすること」としたように、「秘密に」と規定すべきであるとして譲らなかったという。そして、衆議院でGHQの意見を踏まえ上記のとおり修正されたが、その後にGHQは見解を変え、かかる規定は必要でないとの申入れを行い、貴族院で当該規定は削除されることとなった。同書では「総司令部の不手際を示すものであろう」と批判しているが、問題は、そのような規定が置かれなかったことが、自治体議会の議員の代表としての性格を考える上でどのような意味をもつかということであろう。なお、命令委任の禁止については、そもそも1888年の市制36条・町村制38条で「凡議員タル者ハ選挙人ノ指示若クハ委嘱ヲ受ク可カラサルモノトス」と規定しており、市制町村制理由によれば「是固ヨリ法理ニ於テ明ナル所ナリト雖モ議員ノ職務ヲ以テ選挙人ノ委任ニ出ツルモノヽ如ク視做シ議員ハ選挙人ノ示シタル条件ヲ挌遵ス可キモノト為スノ誤チ来サヽランカ為メニ殊ニ其明文ヲ掲クルナリ」としていた。当初の府県制18条もほぼ同様の規定であった。
(18) 1947年11月以降に、内務省及び内務省の機構に関する勅令等を廃止する法律案等が国会に提出され、同年12月26日に公布、翌年1月1日に施行された。
(19) その前年の1955年の国会に、政府は、地方制度調査会の答申に基づき、議会制度の簡素化として、議会の権能を縮小しその活動を制限する内容の地方自治法改正法案を提出したが、自治体議会の側から強力な反対運動が展開され、全国三議長会主催による「地方自治擁護全国議員大会」が開催されるなどし、改正法案については衆議院で審議未了・廃案となった。1956年改正は、これを若干修正・緩和したものであった。
(20) ただし、その直後の市制町村制施行令の改正により、議員定数増減などの4項目に関する条例は内務大臣の許可事項とされた。
(21) GHQの指示の中には、都道府県に法務部を設けて司法行政の地方分権化を図るか、せめて法律顧問を置くべしとする項目も含まれていたが、日本政府はこれを受け入れず、条例での刑罰の定めを認める14条5項の規定を受け、次の6項に「前項の罪に関する事件は、国の裁判所がこれを管轄する。」との規定が置かれた。
(22) その内容については、本連載第1回(2019年11月25日号)で言及したところであるが、それまでの戦前・戦後の地方自治制度の歩みに鑑みると、かなり大幅な自由化と評することも可能なように思われる。
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