2021.04.26 政策研究
第13回 地方性(その4)
植民政策論と地方学
新渡戸の植民政策論(学)は、土地利用に関心がある点で、あるいは、土地利用と人間生活を結びつける点で、地方学と共通する。キリスト者・新渡戸は、『聖書』の「皆主のものなり」を受けて、土地に関して「世界共有社会主義」者でもある。土地は神のものであり、人類共有のものであるから、土地を利用すべき者が土地の主となるべきとする。この土地は、もともと誰のものであったかどうかという、歴史的沿革や相続・所有は、どうでもよいことになる。
国籍の区別なく、人種の区別なく、国家の領土権もどうでもよく、人類のために最もよく利用するものに土地は帰する。植民地主義・帝国主義も、この論理のもとで正当化される。植民とは、大体においては「優等なる人種が劣等なる人種の土地を取ること」であるという。しかし、同時に、新渡戸は、しばしば現実の大日本帝国による植民地経営・帝国支配を批判する。新渡戸からすれば、植民地の原住民の利益にならなければ、植民地支配は植民地という土地をよく利用していることにならないからである。
もっとも、同じ論理は、原住民がその土地をよく利用しないならば、原住民を追い出して、よりよく土地を利用できる新たな植民者が利用すべきだということになり得る。この点は、国内植民地としての「地方」(農村・田舎)にも当てはまるだろう。しかし、新渡戸の観点からすれば、植民地経営と同じく地方経営においても、地方の原住民、要するに、小規模農民の利益を図らなければならないとなるはずである。とはいえ、農村・田舎・農地という土地をより合理的に利用する者がいるならば、ただ、そこに生まれ育っただけという地方民は、追い出されて当然だ、という結論にもなり得るだろう。大土地所有・大規模農業経営者以外の耕作者は、小作人になるか、あるいは都市への流民を経て労働者になるしかない、かもしれない。または、産業化の趨勢(すうせい)のなかで、地方は農業を放棄して工業開発を進めるしかない、かもしれない。いずれも、戦前戦後の日本の地方で実際に起きたことである。
(1) 後藤総一郎「地方学の形成」児玉幸多=林英夫=芳賀登編『地方史マニュアル1 地方史の思想と視点』(柏書房、1976年)、新渡戸稲造『農業本論』(裳華房(Kindleアーカイブ)、1898年)、新渡戸稲造「地方の研究」斯民2編2号(1907年5月号)。
(2) 人口のわずか数パーセントでしかない武士をもって、日本全体の魂と紹介するのは僭称(せんしょう)にすぎないかもしれない。今日でも、 「SAMURAI BLUE」とか「侍ジャパン」などという僭称は、よく見られる。しかし、次回に後述するように、新渡戸は小さな特定の集団、すなわち、農村的な田舎である「地方」の研究から、日本全体さらには帝国主義(植民地)に拡張できるという発想を持っている。ならば、武士道をもって全日本の魂に広げることもできよう。もっとも、では、なぜ武士なのか、なぜ田舎=地方なのか、なぜ百姓・町人ではないのか、なぜ都会ではないのか、という問いが生じよう。人口の大半は当時は百姓(農民)であったならば、農民から組み立てるべきという結論になるかもしれない。
新渡戸の地方学に影響を受けた一人が、柳田國男である。柳田國男は、その民俗学において、水田稲作を基盤とする定住農耕民を想定して「常民(Volk)」を提唱した。常民とは、集団的・類型的に文化を伝承する担い手である。武士は民俗の担い手にならない。もっとも、常民に着目することで、なぜ、非農業民・非定住民を排除するのか、という問いを惹起(じゃっき)することになる。また、実態としても、戦後の産業構造の変化によって、農民が人口的な少数派に転落するとともに、稲作定住農耕民=常民という図式は維持できなくなっていた。ならば、都市的生活をする人間こそを、新たな「常民」として注目しなければならなくなる。また、地方=田舎ではなく、都会=都市に注目せざるを得なくなる。実際、新渡戸の主宰した郷土会での研究報告には、大都市の拡大に飲み込まれ都市化していく近郊農村の報告が注目されている。
(3) 新渡戸稲造「日米関係史」松下菊人訳、1891年(新渡戸稲造全集編集委員会編『新渡戸稲造全集 第17巻』(教文館、1985年))。
(4) とはいえ、ジョンズ・ホプキンス大学では、同時に土地制度や地方自治体の研究をしていた。そこで、後に、ドイツに留学して、農政学、農業史、社会政策、統計学などを学んでいる。ハレ大学博士学位論文は、「日本土地制度論」(1892年)であった。その点では、土地への関心が一貫していたといえよう。
(5) 北岡伸一「新渡戸稲造における帝国主義と国際主義」大江志乃夫ほか編『岩波講座 近代日本と植民地4 統合と支配の論理』(岩波書店、1993年)。
(6) 並松信久「新渡戸稲造における地方(ぢかた)学の構想と展開─農政学から郷土研究へ─」京都産業大学論集 社会科学系列28号(2011年)43〜88頁、から多くを学んだ。
(7) キリスト者であり新渡戸の後継の植民政策学者である矢内原忠雄(東京帝国大学経済学部教授)は、後藤の台湾統治政策を「産業開発主義」と「生物学的政治」と命名した。脈絡はないが、 ミッシェル・フーコーの「生政治」を想起させる。「生物学的政治」は、植民地への同化主義を採らず、現地対応・非干渉主義・旧慣尊重である。同化主義否定という意味で、地方ごとの人間生活と土地の総体を調査し、それに対応する政策実践という方向性が出る。ただし、為政者と民衆は同化はしないので、どこまでも別世界人であるから、植民地原住民と共同するということにはならない。それゆえ、状況によっては、従属主義的に、開発のためには専制政治にもなり得る。