2021.03.25 政策研究
第12回 地方性(その3)
地方性がもたらす負担転嫁と別系統化
第3は、負担転嫁としての集権である。集権のために国が財政措置を自治体に対して行うのではなく、集権のために国は自治体に財政負担を押し付けるのである。法制的には、1911年の改正市制町村制で、市町村長・吏員が職務を執行しないときには、市では府県知事・府県官吏が、町村では郡長・郡吏員が代執行し、その費用を市町村長に負担させることになった。国政が市町村に事務を押し付けながら、それに伴う財源措置をとらなければ、負担転嫁が生じる。そして、市町村が自力で負担をするためには、一方で地域経済を拡充する勧業を進め、他方で地域住民や市町村が倹約・貯蓄・緊縮を行う、という発想になる。さらにいえば、地域住民にも市町村にも実態としての資金がないので、精神主義に転落していく。
第4は、自治体外部での集権である。国政が地方性に関心を持つとき、市町村を通じる必要はなく、別系統の回路を設定することも可能である。端的には、国の独自の地方出先機関を整備することもあり得よう。もっとも、財政危機が地方改良の背景であるから、こうした行政組織の膨張は容易ではない。したがって、地方の地主層・篤農層を動員して、行政(農政)を地方で展開することになる。こうして、1909年から10年にかけて、農業三法(農会法(6)・産業組合法・耕地整理法(7))の改正が進められた。内務省─府県─市町村の外側に、国政の地方での遂行機関である「別系統」を組織したのである。
(1) 宮地正人『日露戦後政治史の研究』(東京大学出版会、1973年)、石川一三夫「地方改良運動と地方体制の再編」中京法学30巻4号(1996年)237?267頁。
(2) 端的には、日清戦争講和・下関条約とは異なり、賠償金をとれない日露戦争講和・ポーツマス条約への反対運動が激化し、1905年9月5日に日比谷焼き討ち事件が起こるなど不穏な情勢となり、桂内閣総辞職に至った。「地方が荒廃」したというよりは、「都市暴動」というべき「都市の荒廃」の方が問題だったかもしれない。しかし、都市が不穏な情勢になるのは、地方が荒廃して、体制安定の基盤が弱まっているからだ、という位置付けで、地方改良運動は課題の方向性(地方性)が設定されたのである。つまり、都市の問題を、地方で解決する、という手法である。
(3) 倒幕維新の「戊辰戦争」も「ぼしん」なのであるが、こちらは「辰(たつ)」であって「申(さる)」ではない。
(4) 田子一民『小学校を中心とする地方改良』(白水社、1916年)。
(5) 山中永之佑「明治44年(1911)市制町村制改正と地方改良運動」立命館経済学39巻5号(1990年)34?93頁。
(6) 1895年に大日本農会から分離独立した全国農事会は、市町村農会、郡農会、府県農会として整然と組織される系統農会の設立運動を進めた。1899年に農会法が制定され、さらに、1900年に農会令(勅令)が制定されることで、府県農会─郡農会─市町村農会という系統農会が設立された。さらに1910年改正では、中央団体の帝国農会が設立された。ただし、松田忍『系統農会と近代日本─一九〇〇~一九四三年』(勁草書房、2012年)では、1899年の法制定と、1922年の改正法が重視され、1910年改正はあまり重視されていない。
(7) 耕地整理法は1899年に制定されたが、1909年の改正により、事業が土地所有者による単純な共同施行から、地主(土地所有者)から構成される「耕地整理組合」という法人によって施行されるようになった。耕地整理組合は、地区内の地主数の2分の1以上、価額で3分の2以上の同意によって認可申請され(50条)、地方長官の認可によって設立される(51条)。組合が設立されると、全ての地主は強制的に組合員となる(45条)。一種の「自治体」である。