2021.03.25 政策研究
第12回 地方性(その3)
東京大学大学院法学政治学研究科/公共政策大学院教授 金井利之
地方改良運動
「地方創生」に見られるような、地方圏への経済活性化、及び、それによる東京圏・日本全体への貢献という発想は、目新しいものではなく、むしろ、平凡なものである。国政が地方圏に政策的に梃子(てこ)入れするのは、国政にとってメリットがなければならないし、非地方圏である大都市圏にもメリットがなければならない。地方に対する政策は、二つの地方性に対置される二つの中央性(中央政府+大都市圏)に対する政策でもなければならない。単に地方利益の追求だけでは、地方圏と大都市圏とのゼロサム的対立になるだけであり、国政にも紛争の種になるからである。こうした地方圏対策の嚆矢(こうし)は、日露戦争後に展開された「地方改良運動」又は「地方改良事業」である(1)。
地方改良運動には、様々な側面があるので簡単な要約は難しいのであるが、日露戦争のための莫大な戦費・戦死者など、巨大な経済的・人的な負担・損失によって「荒廃した地方社会」の改良・再建を目指す、内務省を中心とする官製運動と考えられる(2)。1909年7月に開催された「地方改良事業講習会」にちなんで「地方改良」を冠する習わしになっている。
「公的」決定としては、第2次桂太郎内閣のもとで出された「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)(3)」(1908年10月13日)を錦の御旗にしており、その前後から展開している。内務省は、それに先立って、1906年5月に開催された地方長官会議において「地方事務ニ関スル注意参考事項」を示し、町村経済の強化や、町村財政の確立などをうたっている。
とはいえ、近代化・産業化・資本主義化の中で、町村部の地方経済が経済成長によって改善することは見込めない。結局は、近年の新自由主義・構造改革路線と同様に、倹約貯蓄による納税・財政の確立、という緊縮路線に行き着いた。今では「元祖・歩きスマホの達人」と揶揄(やゆ)され、社会ルールを「わきまえない」(森喜朗・前東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長)タイプの人間の典型とされる二宮尊徳の像が、当時は勤勉な模範的人間の代表として各地の学校に存置されるようになったのも、この運動による。