2021.02.10 議会運営
第10回 失言と発話、話し合いと〈つなぎ・ひきだす〉力
〈つなぎ・ひきだす〉話し合いの力
ここまでは都市型社会での「発話」一般、特に発話の前提となる規範について見てきたが、一方通行の発話だけがあるわけではない。政策過程にとっては、特に都市型社会の、さらに地域課題にとって、課題とその対策=〈政策・制度〉をめぐる話し合いは、政策過程を進めるエンジンでありエネルギーでもある。そこで求められる理念や規範は何か。
筆者は2003年から龍谷大学LORC(現、地域公共人材・政策開発リサーチセンター)で地域政策を担う人材、特に専門職業人の能力を伸ばすプログラム開発を担当する共同研究を行った。龍谷大学RECで開催している「質問力研修」も、ここから生まれたものである。NPO・NGOスタッフや自治体職員、またもちろん自治体議員、そして職業人ではないけれども地域政策とその過程を担う主体を、職業やセクターによる分断を超えてとらえる「地域公共人材」という視角によってとらえ、その能力を伸ばす教育・研修プログラムを目指す研究プロジェクトだった。
では、地域政策を担う人材に求められる能力は何か。研究グループでは当初、広い意味でのファシリテート能力と仮定していた。しかし、地域政策の現場で活躍している人々に求められる人材像を尋ねると、当然だが、ファシリテーターに限らず、コーディネーター、ディレクター、プロデューサー、いやいややはりリーダー……と、様々に挙げられた。それらすべての能力を内包している人材がいればそれは超人であり、それらの能力を網羅的に育成するプログラムを構想することは難しい。しかし、より深く聞いていくと、結局それらの提示が指す根幹には、セクター、つまり、市民と自治体、企業といった活動領域の垣根を越えて、またそれぞれの内部で、連携・協力できる関係をつくりだす力が求められていることが見えてきた。立場や利害、活動領域やそこから生まれる文化などの違いを踏まえつつ、それを超えて、地域課題の解決に向けた連携・協力を生みだすことにつながる、多様な主体を〈つなぎ・ひきだす〉力である(より詳しくは、参考文献のうち、土山・村田・深尾(2011)を参照されたい)。
話し合いの場でのファシリテーター、コーディネーターが持つその集団の意思決定にかかわる権限は異なる。単純にそれぞれの役割を整理すれば、ファシリテーターはその集団の一員というより、やや外にいてその集団のメンバーの意思決定をしやすく(ファシリテート)することが役割で、コーディネーターは集団の意思決定にはより重要な位置にいるが、そのために構成員の意見や利害を調整(コーディネート)することが役割といえる。しかし、集団の意思決定に果たす役割は異なるとしても、多様な立場、利害、価値観を持つ集団のメンバーを〈つなぎ〉、理解や共感を〈ひきだす〉能力を発揮していることは間違いない。プロデューサーも、ディレクターも、特に、自発性に支えられた任意の集合体である市民社会セクターの主体にとっては、リーダーもまた、かつての「俺についてこい、ついてこないやつはいらん」というワンマンカリスマリーダーではなく、その集団を構成する人々の個性や利害や立場や事情といった多様性を踏まえつつ、一つの集団として結びつけるリーダー像が描かれよう(表)。
このように、地域政策を担う主体に求められる力が〈つなぎ・ひきだす〉力だとすると、それが発揮されるのが、対話や議論つまり話し合いの機会といっていい。人々の地域政策へのかかわりがその個人の自発性、任意性に支えられるものなのだから、地域政策へのかかわりも、その延長にありうる連携・協力も、その人が「しようと思ってくれる」自発性に期待するしかない。そうした自発性、任意性に作用することができるとすれば、それは対話ではないか、ということである。
地域や社会の課題に関心を持つ人々を増やす媒体としての「話し合い」
地域や社会の課題に取り組んでいて、他の主体にもその課題に関心を向けてほしい、取組みに加わってほしいと願ったときにできることは、対話、「話し合い」を通じた働きかけではないか。
わたしたちは、外部からの刺激、例えば会話や、メディアによる報道や、読むことなどを通じて、未知の情報を得る。特定の課題について、関心を持ったり、意識を変えたり、何かしたいと思ったり行動したりするように「なる」のは、単に情報が流れてくるからではなく、それに「対し」て気づきや、考察や、発話として、自分の変化を感情や言語で認識するからだ。外部からの刺激に対して、内面が対応して変化する、その作用が対話、話し合いによって起こりうる。このとき、対話は、音声とは限らないし、自分との対話といったりするように、対面する相手が実体として存在しているとも限らない。
地域や社会の課題に関心を持ってもらい、取組みに加わるということは、社会にある問題を認知し、それを解決に向けて対応されるべき課題だと位置付け、その課題と課題がもたらす困難に向かい合う人々を理解し、共感することが前提になる。認識や理解や共感が浅いか深いかには大きな差があるが、そうした「課題としての共有」が、あらゆる公共政策の前提であり、その政策過程を通じて増えていくことが期待される。
自治体〈政策・制度〉をめぐって、行政職員や議員からも、しばしば「市民の自治体への関心の低さ」を嘆く声が聞こえる。しかし、総体としての自治体政策やそれを担っている組織に関心を持ってほしいといっても、心身を害するほど働く場が厳しく、経済的にも停滞を続ける社会で、人々が関心を持つ序列の中に「自治体への関心」が入りにくいことはむしろ当たり前ともいえる。だが、一般的なぼんやりとした「自治体への関心」ではなく、子育てや、環境や、福祉や、さらにその中でもより具体的な特定の「課題」についてであれば、理解や共感を持つ人はいるだろう。「自治体への関心」とは、多様な課題への関心とそれに取り組む組織への関心の、市民それぞれの積み重ねとしてとらえた方がよいではないか。公共という言葉の語源が「共通の関心事(res publica/commonwealth)」であるように、利害も価値観も多様で異質な人々を、課題の可視化と共有によって、その課題が存在する社会を共有する「わたしたち」がつながりうる。そして、その課題にどう対応し、どんな方策をとるかを考えるには、さらなる「話し合い」が必要になる。自治体〈政策・制度〉をめぐってその「話し合い」をするヒロバとは、本来的に、議会に期待されている役割ではないだろうか?
この連載でも、議会で自治体の〈政策・制度〉をめぐる課題を提起して〈争点〉とし、それを掘り起こすことの重要性を指摘してきたが、それは、市民の自治体政策への関心を高めるということが、それぞれ持ちうる関心の異なる人々を多様な課題で〈つな〉ぐということであって、そのヒロバに議会がなりうるからでもある。