2020.08.25 政策研究
第5回 近接性(その4)
東京大学大学院法学政治学研究科/公共政策大学院教授 金井利之
真正性
著名な人類学者であるC. レヴィ=ストロースは、「真正性の水準」を論じてきた(1)。それによれば、3万の人間は500人の人間とは同じやり方で社会を構成することはできない、という。人間の規模の違いは、単に量的な違いだけではなく、質的な違いをもたらすのである。社会には、他の人々との直接的な対面コミュニケーションや関係性のある小規模な「真正な社会」と、メディア・法・貨幣など一般化された媒体による間接的なコミュニケーションによる大規模な「非真正な社会」とに区別される。「非真正な社会」とは、近代における「社会の発明」によって登場したという意味では、「非真正な社会」こそが「社会らしい社会」であって、「真正な社会」は、近代的な意味での社会ではなく、単なる人間集団、共同体、群れ、ムラというべきものかもしれない。
「真正な社会」とは、人間と人間の関係が複雑性を持ったまま、1人の人間が他の1人の人間によって具体的に理解される。「非真正な社会」では、こうした具体的な理解は数が多すぎて不可能であるため、思考の経済的節約によって複雑性は縮減される。つまり、具体的な人間としてではなく、一般的な役割やカテゴリーとして理解される。「真正な社会」では、具体的な人間で構成される。近代には「真正な社会」は存在しないようにも思われるが、レヴィ=ストロース自身は、「非真正な社会」である近代にも、小規模な「真正な社会」は、近隣や職場として、存在するという。
小規模性と人間の情報処理能力の限界
要するに、人間が個人名を具体的に相互に把握できる量は、大した数にはならないということである。膨大な数の名刺交換をしても、記憶できない。スマホ・携帯電話の中の電話帳に大量の相手先を記憶させても、実際に認識できる数は500人程度ということである。年賀状の交換も、500人を超えるような人は限られるだろうし、あまりに数が多くなると誰が誰だか分からなくなる。もちろん、個人差はあるのであって、大量の個人名を記憶できる人は、それだけ真正性のある人脈も広がるだろうが、相手の人が同じように多数の人間を識別できる保証はない。人脈の広い人がいることは、「真正な社会」の規模が大きくなるのではなく複数の「真正な社会」を二股三股掛けられる人がいるというだけである。
「真正な社会」は、SNSや電子会議のようなオンラインのつながりという手段になったとしても、規模には限界がある。オンラインのつながりがあれば、確かに地理的な近接性は必要なくなる。しかし、相互に認識できる「真正な社会」であるとは限らない。相互に具体的な個人を認識できるとは限らない。オンラインのつながりは、そもそも匿名やアバター・ハンドルネーム、要するに、仮面・仮想・偽名の世界でもありうる。カテゴリーや役割のつながりであり、「非真正な社会」であることが普通である。
もちろん、個人名を明示し、ときに、個人情報をさらして、オンラインでつながることは不可能ではない。テレビ会議などを開催することはできるし、オンライン飲み会を開催することはできる。相互に誰が誰だか分かっている集まりは、電子回路でも可能である。しかし、電磁的媒体を利用しても、それが可能なのは限られた規模である。そして、オンラインでも「真正な社会」でありうると錯覚して、個人情報を一方的にさらしてしまい、しかし、他方の相手方は「非真正な社会」にとどまったまま、一向に個人情報を開示せず、非対称的な関係となって、こちら側だけが被害を受けることもある。議員にとって、SNSは自らを発信する手段であるが、自らの愚かさを拡散する手段でもある。
近接性と真正性
自治体は、国に比べて人口規模が小さいから、真正性の水準においていえば、より真正性が高いということもできよう。もちろん、現代の自治体は、かつての自給自足のムラとは異なり、近代国民国家という「非真正な社会」の中に存在している。近代社会が提供する法令、メディア、貨幣(財源)、党派などの一般的な媒介手段を使っている。しかし、それらの媒介手段を「真正な社会」的に、つまり、一般性を剥奪して使うことによって、「真正な社会」、つまり、具体的な個人名による近隣社会になっている可能性もある。その意味で、近接性は真正性を意味するともいえよう。
小規模な集団が「真正な社会」であり、大規模な集団が「非真正な社会」であるとき、自治体と国の違いと重なるかもしれない。国は「非真正」であり、自治体は「真正」であるという発想である。もっとも、自治体といっても、都道府県のような大規模自治体は「ミニ版」の国であって、本当の意味での「真正な」自治体ではない。「真正な」自治体となりえるのは、小規模な基礎的自治体である市区町村である。小規模性=真正性は近接性と似たものとなろう。
日本の市区町村の非真正性
もっとも、現代日本でのほとんどの自治体は、500人規模ではない。500人規模の自治体は、東京都青ヶ島村、東京都利島村、東京都御蔵島村、鹿児島県三島村、新潟県粟島浦村、沖縄県渡名喜村、高知県大川村、和歌山県北山村、奈良県野迫川村、長野県平谷村、沖縄県北大東村、島根県知夫村、福島県檜枝岐村、鹿児島県十島村などに限られる。大半は島しょ部のいわゆる「離島」、「孤島」であり、それ以外は「陸の孤島」である。したがって、現代日本の大半の市区町村は、もはや「真正な社会」ではない。
ごく普通にいえば、近代国家である日本政府が累次に進めた市町村合併の国策が、市区町村の真正性を奪ってきた。にもかかわらず、真正性が相対的に残された村は、遠隔の離島であるなどの地理的条件から、合併の効果が発揮できないとして、「お上」の進める「近代化」の「恩恵」から「取り残された」異界ということでもある。
明治時代の市町村であれば500人規模もありえたが、昭和の大合併で市町村の規模は8,000人が目指された。その後の社会的人口流出による過疎化により、現実の末期昭和の町村の規模は8,000人を大きく割ることが増えてきた。そえゆえ、平成の大合併で、人口規模の再拡大又は回復が目指されたのである。その意味で、むしろ、日本の市町村は、過疎化・少子化・人口減少によって、「真正な社会」に向かうベクトルを持ちながらも、国策又は政権党の意思としては、「非真正な社会」でなければならないという方向性があるのだろう。つまり、多くの住民にとっては、最も近接性があると思われる市町村でさえ、「真正な社会」ではありえない。
しかし、「真正な社会」は「非真正な社会」の中にも存在しうるとされる。自治体という大規模集団は「非真正な社会」にすぎず、それゆえ近接性を主張できない。しかし、500人規模の近隣社会こそが、「真正な社会」であり、近接性を主張できる。近接性が自治の特徴であるならば、真の自治は基礎的自治体にすら存在せず、近隣社会や地域コミュニティにのみ存在するという発想になる。国も自治体も近接性のない存在である。真に近接性があるのは、自治会・町内会のような集団であり、地域住民自治組織と呼ばれるものである。こうなると、自治体は近接性を特徴として声高に主張することはしにくくなる。
もっとも、多くの人々にとって、自治会・町内会が遠い存在であることもある。コミュニティ活動などからは疎遠なことが普通である。近くて遠いのが自治会・町内会である。あるいは、しがらみを与えてくる存在としては近いが、自らが働きかける相手としては遠い存在である。自治会・町内会や近隣コミュニティの近接性や真正性を主張する人は、単に、自治会・町内会の中での特権的な有力者集団の一員であるにすぎないのかもしれない。
地域権力構造における有力者集団
人口1万人の「非真正な社会」である市町村でも、実際の地域権力構造の有力者は、500人に満たないこともあろう。いわゆる地付きの有力者、大地主、地元名望家、名士、名家、本家筋などの数は限られている。経済的に成り上がった新興勢力も、決して多数ではない。政治行政の有力者も、首長・三役、幹部行政職員、有力与党議員など限られている。自治体が年初に開催する賀詞交歓会に呼ばれるような人間は、大規模自治体でも大した数ではない。ちなみに、人口1億2,000万人の大規模社会である日本国の国政でも、首相主催の「桜を見る会」に呼ばれる人数には限りがある。首相の地元後援会のメンバーにでもならなければ、「真正な社会」の一員にはならない。ならば、地域社会の中のこうした有職者集団が、自治体の中で「真正な社会」を構成しているのかもしれない。
国政でも、衆議院も参議院も定員は500人に満たないのであり、「政界」はそれ自体で「真正な社会」かもしれない。あるいは、与党は衆参両院内の巨大勢力を占めているとはいえ、500人程度である。その意味で、「政界」は、「未開」部族社会と同じで、当人にとっては「真正な社会」なのであろう。国とは、政界という特権的で「真正な社会」が、「非真正な社会」に暮らす民衆=国民を支配する二重社会なのである。人口1万人の自治体も同様であり、例えば、500人の有力者たちの「真正な社会」が、残りの9,500人の民衆=住民という「非真正な社会」を支配しているだけかもしれない。自治体に近接性があるのは、「真正な地域社会」に暮らす地域権力構造の有力者500人にとって、だけかもしれない。
国政もそうであるが、自治体も二重社会である。国政や自治体政治を牛耳る有職者集団は、「真正な社会」を形成する。こうした有力者にとっては、国も自治体も近接性のある存在である。しかし、支配される民衆にとっては、単なる「非真正な社会」でしかない。実は、自治体議会とは、こうした二重社会を目に見える形で再現(リ・プリゼント=代表)するフォーラムともいえる。「真正な社会」に属する首長・幹部職員・与党有力議員と、「非真正な社会」にとどまる野党無力議員・「市民派」議員が一堂に会することもあるからである。もっとも、議員の数は少ないのであって、相互に誰が誰だかが見える小規模集団であり、それ自体で「親睦」を深めれば、議会という「真正な社会」ができ上がる。与党有力議員は、自治体政治を仕切る「真正な社会」と、議会という「真正な社会」とに二股掛けをしていることになる。
国と比べて自治体の近接性を疑わない人間は、国政にとっては「非真正な社会」の側にいるにもかかわらず、自治体においては「真正な社会」の側にいる人間かもしれない。とするならば、自治体の特徴として近接性を主張することは、単に、自らの自治体内での特権的位置を、無自覚に表明しているだけなのかもしれないのである。【つづく】
(1) 小田亮「『真正性の水準』について」思想1016号(2008年)297〜316頁。C. レヴィ=ストロース『構造人類学』(みすず書房、1972年)。