2020.06.25 政策研究
第3回 近接性(その2)
人口規模と政治的距離
しかし、政治的距離と地理的距離は同じではない。政策決定に影響を与えることができるかどうかが政治的距離であろう。民主制とは、住民諸個人が相互に平等な「一人一票」制であるから、ある個人の「一票の重み」=1÷人口数(人口規模)となるはずである。
一般にある個人から見て、自分に関係する政府の人口規模は、市区町村<都道府県<国である。したがって、ある個人の「一票の重み」は人口規模の逆数であり、人口規模と逆の順になる。つまり、市区町村>都道府県>国となる。
もちろん、すべての住民諸個人が相互に同じ「重み」を持っているというのは、自治の実態を踏まえたものではない。選挙における投票権はともかくとして、実際の政治における発言権の重み、要するに、権力の配分は、同じとは思えない。有力者と無力者は存在する。有力者の政治的距離は、無力者の政治的距離より、格段に近いものである。とはいえ、それは、住民間の「一票の重み」の較差であり、有力者には無力者の何倍、何十倍もの配分がされているようなものである。しかし、当該政府(市区町村・都道府県・国)の全体としての政治的距離を見るには、平均してみればよい。つまり、人口規模の逆数で見ればよい。
例えば、八王子市の人口は56万人、東京都の人口は1,400万人、日本国の人口は1億2,600万人であるから、八王子市に住む個人の政治的な「重み」は、それぞれ、56万分の1、1,400万分の1、1億2,600万分の1である。国への政治的距離は東京都への距離の約9倍、八王子市への距離の約225倍ということになる。
もっとも、ある個人の「一票の重み」は、八王子市では0.00000178571、東京都では0.00000007142、国では0.00000000793である。その意味では、ほぼゼロである。つまり、これだけの大規模自治体においては、民主的に「一人一票」の観点からすれば、ほとんど個人は存在しないに等しい。それゆえに、基礎的自治体が近接性を持っているとは必ずしもいえないだろう。日本のような三層制の政府体系においては、いずれも近接性を満たしていない。
もちろん、基礎的自治体は、人口170人の青ヶ島村から、人口375万人の横浜市まで幅がある。「一票の重み」は、青ヶ島村では0.005882352、横浜市では0.000000266である。横浜市はほぼゼロであるが、青ヶ島村は約0.6%であり、ほぼゼロとはいえないかもしれない。つまり、一定の基礎的自治体ならば、ある程度の近接性を満たせるが、ある規模を超えれば近接性を満たせなくなる、ということかもしれない。人口1,000人の町ならば0.1%、人口1万人の市ならば0.01%、人口10万人の市ならば0.001%、人口100万人の政令指定都市ならば0.0001%である。どこで近接性が失われるかの線引きは、極めて恣意的にならざるをえない。
もっとも、通常の常識では、0.6%とはほぼゼロを意味するかもしれない。つまり、青ヶ島村に移住したからといって、特に村政への政治的距離が近づくとは思えない。とするならば、小規模な市町村も大規模な大都市も、いずれも近接性はない。すると、国に対して自治体が、特に基礎的自治体が、近接性を主張することもできないかもしれない。こうなると、国と自治体の違いは大差がないといえるかもしれず、自治体を近接性で特徴付けることは容易ではないかもしれない。
政治的距離と政策指向性
住民が期待するのは、自分の声の大きさよりも、自分の好みに合った政策を国・自治体がしてくれるかどうかである。自分の選好や指向性に近い政策を実施する国・自治体が政治的距離が近い。逆に、近い政策を採用してくれないのが、政治的距離が遠い国・自治体となろう。その意味では、自治体が国に比べて、常に政治的距離が近いという保証はない。
例えば、自分はカジノ好き(個人の嗜好(しこう)というより政策指向性のことなので、正しくはカジノ推進派)だとしよう。国はカジノ好きで、自分の住んでいる自治体(都道府県・市町村)がカジノ嫌い(カジノ反対派)であれば、国の方の政治的距離が近い。逆に、自分がカジノ嫌いであれば、国の政治的距離は遠く、自治体の政治的距離は近い。自分がカジノ嫌いにもかかわらず、国も自治体もカジノ好きであるならば、どちらも政治的距離は遠いということになる。あるいは、自分がカジノ嫌いのときに、国と自分の住んでいる市がカジノ好きで、自分の住んでいる県がカジノ嫌いであるならば、県の政治的距離が一番近く、国と市は遠い存在となる。そして、国・都道府県・市町村のいずれに対しても、一票の重みなどは、上述のとおりほぼゼロであるから、自分が国や自治体の政策指向性に影響を与えているわけではない。むしろ、単なる好みと相性の偶然の一致の問題となる。
多数決民主主義の世界では、多数派の政策指向性が採用されることが基本である。その意味では、多数派に属することが政治的距離を近いものとする。「長いものには巻(負)かれよ」ということわざにあるとおりである。あるいは、ときの為政者と同じ政策指向性を持てば、政治的距離は近いものとなる。いわゆる「お友達」である。したがって、多数派の一員であることが必ずしも政治的距離の近さを意味するのではない。非民主主義体制も含めて一般化していえば、権力者に付和雷同すれば、政治的距離は近くなる。中国でいえば、習近平・共産党支配体制に親近すれば政治的距離は近くなるし、日本でいえば、安倍一強体制に親近すれば政治的距離は近くなるし、大阪でいえば、吉村・維新一強体制に親近すれば政治的距離は近くなる。
自由主義の世界では、こうして見ると、政治的距離の近さは、必ずしも褒められたものではない。為政者が自分に近づいてきたとは限らず、自分が為政者に近づいただけかもしれないからである。上述のとおり、一票の重みがほぼゼロの我々個人は、為政者を身近に引き付けることは普通はできない。それゆえ、後者しかありえない。この場合には、自由を放棄しない限り、政治的距離の近さを得られない。それが望ましい状態なのかといえば、むしろ逆である。政治的距離は遠いことが確保されている方が、自由主義社会には望ましいのかもしれない。為政者に近づかなくても生きていける社会だからである。【つづく】
(1) https://edition.cnn.com/2020/04/15/world/social-distancing-language-change-trnd/index.html