2020.05.25 議会改革
第8回 議会審議のあり方─どのようにして決めるか─
3 なぜ多数決なのか
いかに議会において議論が重要であるとはいっても、いつまでも議論を続けるわけにもいかず、最終的には、何らかの合意や決定が必要となる。会議体における意思決定は、できればその構成員の全員の一致によりなされることが望ましいともいえるが、いかなる場合においても全会一致をもって決するというのは、実際上は困難であり、会議体において何らかの意思決定を行うがために多数決が採用されることになる。
多数決は、C.ベッカーが「頭数を数える方が、頭を叩き割るよりはましである」と述べたように(『現代民主主義論』1941年)、意見の対立を最終的に調整する理性的なテクニックであり、あくまでも次善・便宜的な手段とされる。ただ、多数決がいかなる理由によってどの程度正当化されるかについては、その民主主義観も絡んで、古代ギリシャ以来、様々な議論が展開されてきている。
ここでその代表的なものを挙げるならば、一つは、個々の構成員の意見はそれぞれに等しい価値をもち、そのいずれが正しいかを客観的・一義的に判断するものがないとする「相対主義」を前提とするものだ。この場合、多数決によって、多数の意思が会議体の意思となるのは、多数の意思が少数の意思より優れているからではなく、それが多数であるからであり、それ以上の何もないということになる。
もう一つは、様々な知識や経験をもった多数の人間による決定は、少数の優秀な人間による決定よりも優れたものとなるとするもので、古くはアリストテレスが述べた考え方だ。多数決はその動態性・弾力性やフィードバック作用によって経験主義的に正しさに接近することを可能にするとの説明も見られる。
このほか、統合といった多数決の社会技術としての性格・機能を重視する見方などもある。
それぞれ多数決の一面を捉えているとはいえるが、いずれにしても、多数決においては、多数の意思が会議体の意思とされることで、最終的には多数派の意思に少数派は従うことを余儀なくされる。多数決が、「多数派支配」ともいわれるゆえんであり、また、議会制民主主義の場合には、議会で多数決により制定された法律や条例は、それを支持する者であろうとなかろうと人々をあまねく拘束することになる。
このように議会における多数決の効果は、国や自治体の意思として、国民や住民に対する一般的・普遍的な法効果となって現れるものだけに、議会あるいは議員の行動には、社会に存在する人々の多種多様な意見の傾向・分布ができる限り反映されることが要請されることになる。
しかしながら、現実の立法では、民意と議会の多数派意思との乖離(かいり)、個別利益の横行などといった問題がしばしば批判されており、そのことが、政治や議会に対する不信を生じる一因ともなっている。議会としては、できる限り民意の動向を踏まえるとともに、その理解が得られるよう説明責任を果たしていく必要がある。
もっとも、民意といっても、その存在を否定すべきではないとしても、何が民意であるかは、それが多様・断片的・流動的で気まぐれでもあるだけに、なかなか難しい問題といえる。また、民意は、最初から既成のものとして存在しているのではなく、常に形成されていくものであって、それが選挙や立法の過程のそれぞれの段階で断面として映し取られることになり、最終的には、それが立法という形で国や自治体の意思に転化されたときに、それと国民・住民の意思との間の近似性が問題とされることになるのである。ただし、民意といっても、基本的に、それを規範的なものと捉えるか経験的なものと捉えるか、あるいは人々の多数の傾向と捉えるか各人の意思の集積と捉えるかなどによって、その意味や内容が異なることにもなる。
なお、議会における多数派による決定が最終的なものとならない場合があることにも注意が必要だ。
すなわち、多数決は、多数派支配となり、ときに、数の横暴や恣意を招き、少数派の権利を侵害することにつながりかねない面をもつ。憲法は、基本的人権を保障し、様々なルールや枠を定めることで、多数による決定をもってしてもなしえないことがあるとするとともに、その防壁となるものとして裁判所に違憲審査権を与えている。それらは、立憲主義として語られるが、そこでは、人々の権利を実現し自由を擁護するために、法によって権力を縛り、多数派もそれに従うことが求められることになるのである。