2019.11.25 政策研究
住民のための議会の取扱説明書
勝手に議論する議員
議論をする人間は自分で判断し、反論し、納得し、ときには意見を変えるような、自由度が必要である。代表としての議員は、基本的にはこのようなイメージである。一般的には「代表委任」と呼ばれる。つまり、住民から取次を委任されたとしても、それは代表であるから、その先は議員の本人の判断で処理することもあるということである。議員は住民に命令されて行動するのではない。
しかし、このように住民に操縦されないとすると、議員は勝手に行動することもある。選挙で選ばれるという意味では、あまりに勝手なことをしていると、住民は次の選挙のときにダメ出しを与えることはできる。つまり、落選させることはできる。とはいえ、選挙における競争が激しくなければ、立候補した人はかなりの確率で当選する。現代日本の場合、議員のなり手不足が深刻であり、無投票当選はよくある。この場合、どのように行動しようと議員は安泰であるから、代表委任としての議員の自由度は保証されている。そうでなくても、定員15人に対して17人の立候補者しかいなければ、よほどひどい2人以外は、かなりの自由度を得られる。
こうして、議員は住民の意向とほとんど無関係に行動できるようになる。この結果、住民の意向を無視して、議員は勝手に行動し、住民意思から遊離して議会は意思決定している、ということになる。このような議会・議員は全く信用されないだろう。こうして、議会・議員不信は増進する。そのように議員を信用できないのは、選挙での競争がないからなのであるから、住民から見て、自分たちの言うことを聞かない議員が多いのであれば、自分が立候補すればよいはずである。しかし、そうはならない。議会・議員不信は、議員になること自体を「汚らわしい」、「忌避すべき」ことにしてしまう。
住民投票の功罪
住民の意向から遊離しがちな議会・議員に喝、又は活を与えるには、住民の威光を見せつけることである。住民投票には、このような価値がある。つまり、住民の意思を具体的に明らかにすることによって、住民意思から離反するときには、いつでも議会・議員の仕事はなくなるということを、「脅迫」に使うのである。
もちろん、全ての案件を住民投票で決定することはできない。そもそも、それができるぐらいならば、議員という代表を選出するまでもない。あくまで、あまりに乖離(かいり)するときには、議会は用がなくなる可能性があるという危機感を与えることによって、日常的にも、住民の意向を忖度(そんたく)するように議員を仕向ける発想である。直接民主制は、それ自体で間接民主制に取って代わるのではなく、間接民主制が機能不全にならないように、万が一の安全弁として確保しておく補完物となる。
とはいえ、住民投票は、住民の多数派の意見を住民全体の意思と見なすことであり、多数派専制という危険を常にはらんでいる。しかも、全域投票での相対多数の意見に集計するということは、実は、首長選挙の意思表明方式と同じである。住民投票は、直接公選制の首長に非常に親近する。早い話、同じような方法で投票される首長と住民投票は、非常に相性がよい。首長は、自分の望む意向を、住民全体の意向であると議会に対して見せつけるために、住民投票を動員することができる。こうした住民投票を、人民投票=プレビシットと呼ぶことがある。住民からの人気を背景にした独裁的な首長によって、反対派の意見を封じ込めるために、住民投票が使われることもある。
これは、住民投票は、実効的な議論がしにくいという難点があることにも起因している。むしろ、いろいろな議論はあるにせよ、最終的に住民の多数の意思は何であるかを明確に示すのが住民投票の強みということができるから、議論を打ち切ることが多い。議論にも価値があるが、決定にも価値があるのは、議会における審議でも同様である。議会もいつまでも議論しているフォーラムではない。審議をした上で議決する。住民投票も同様であり、票決するとしても、事前に議論を組み込めば対処は可能である。問題は、どのように住民間の議論の場を整備するのかである。