2019.09.25 議員活動
【インタビュー】新時代を迎え、 片山善博氏に聞く
片山善博 早稲田大学教授
聞き手・丸山実子 時事通信社内政部長
片山善博氏は、1974年(昭和49年)に当時の自治省(現総務省)に入省し、秋田県能代税務署長、自治省固定資産税課長等に奉職した後、鳥取県知事や総務大臣等も務め、文字どおり一貫して地方自治とともに生き、地方自治の発展を願って邁進してきた方である。時あたかも5月には新元号がスタートし、我が国は新たな時代に入ろうとしている。そこで今月号では、片山氏がこれまで関わってこられた地方自治のあゆみ、そして現在の政治・行政とりわけ地方自治が抱える課題、さらには令和時代を迎えての今後の展望や期待について、片山氏に自由に語っていただく。
■はじめに
丸山 時事通信社の丸山と申します。本日は、どうぞよろしくお願いいたします。
片山先生が歩んでこられた道は、どの部分をとっても地方自治と深く関わっていらっしゃいます。自治体の現場にいらっしゃったこともありますし、県知事として地域の発展に尽くされ、自治を推進する総務省の大臣という要職にいらっしゃったこともあります。いろいろなポジションをやっていらっしゃる。先生の歩みを振り返ってお話を伺えるというのは、なかなかないチャンスだと思いまして、今日は、非常に貴重な機会をいただいたと思っています。私も大変楽しみでした。ありがとうございます。
現在は人口減少問題ということで、自治体の現場では、職員の方たちは人手不足に悩まされながら、かつ他の自治体に負けないサービス水準を求められて苦しんでいると思うのですが、そういう中で先生のこれまでのご経験を学ばせていただき、活力ある明日を展開していければと思っております。先生、本日はどうぞよろしくお願いいたします。
片山 こちらこそ、よろしくお願いします。
片山善博 早稲田大学教授
Ⅰ自治官僚時代
■自治官僚になって
丸山 まず、先生の歩んでこられた道を振り返りながら、いろいろお話を伺えればと思うのですが、先生は、自治省に1974年(昭和49年)に入省されました。これは一度お伺いしたかったのですが、先生はなぜ自治省に入られたのですか。
片山 これはいろいろな要素を含むのですけれども、官僚になるというのは大学で勉強している間に何となく方向を選択していました。その中で特に自治省に入ろうとしたのは、大学で西尾勝先生のゼミ生だったのが大きな要因だったかもしれません。ゼミのテーマが文書公開だったのですが、これは、今で申しますと情報公開ですね。当時は情報というのは専ら文書でしたから。
文書公開というテーマを勉強するに当たり、まず自治体の実態を調べにいこう、実情を聞きにいこうということになりまして、四つぐらいの班に分かれて県庁や都庁に行くことにしたのです。
私は東京都庁と埼玉県庁、それから千葉県庁の三つの都県に行ったのですけれども、電話をかけたときからしてびっくりしてしまいました。「もしもし、私は○○のゼミの学生で、文書公開の実態をお聞きしたいので、お邪魔させていただけませんか」と電話しましたら、ものすごく警戒心に満ちあふれた対応だったのです。「何をしにくるのですか」と聞かれるので、「ゼミで勉強するのです」と答えるのですけれども、「狙いは何か」とか、「何を探っているのか」とか、そういう言い方をされるのです。どこも同じような対応でした。
特に私がびっくりしたのは、東京都は当時、美濃部都政、いわゆる革新都政で都民に開かれた都政を標榜していたし、埼玉県は畑和県政で、これも革新県政でした。千葉県は保守県政でしたが、保革問わず全部同じ対応なのです。ものすごく警戒心に満ちあふれているのですね。
ゼミの何人かで訪問したのですが、「本当に何も他意はありませんから」と申し上げて、「そうですか、それでは来てください」といわれて伺いましたら、こちらは学生3人ぐらいで行くだけですのに、県庁の人がずらっと並んでいまして、何かおどおどしているのです。話しているうちに、だんだん打ち解けてきて、我々には何も他意はないのだということが分かってもらえるようになりました。でも最初の私の印象は、「この人たちは何か悪いことをしているんじゃないか。やましいことがあるんじゃないか」というものでした。それが一つの役所だけならともかく、どこも一緒なのです。他の県庁や市役所に行った学生たちも、だいたい似たり寄ったりの経験をして帰ってきましたので、ゼミでのテーマである文書公開もさることながら、自治体の基本的な姿勢やあり方が問われるんじゃないか、ということになりました。どの自治体も文書公開に対してとても否定的な印象でしたから、それは当時の地方自治そのものに隠蔽体質という病理があるのではないかという見立てになったのです。
そんなことから、何人かで話をしていまして、「じゃ、自治省を受けてみるか」ということになりました。その結果、西尾先生のゼミから何人か一緒に自治省に入ったのです。西尾ゼミは2学年合同のゼミでしたから、1年下からも自治省に入りまして、その当時、西尾ゼミから自治省に入った人は多かったのです。
■能代税務署長と二度の鳥取県勤務
丸山 当時の自治体は、今とはずいぶん違っていたのですね。そうしますと、片山先生は見習いというか、スタートはどちらに入られたのですか。
片山 スタートは自治省行政局の公務員第一課というところでした。
丸山 どのようなお仕事でしたか。
片山 公務員第一課には、入省後の3か月間だけ在籍しまして、だいたい研修の期間なのです。最初の各省合同の公務員研修は代々木のオリンピック記念センターで行われておりまして、それから各省に戻ると一応各課に配属はされるのですけれども、ほとんど日がな一日研修を受けているのです。ですから、どこの課に配属されたというのはあまり関係がなくて、仕事もほとんどしていませんし、ちょっと手伝いをするぐらいでした。いってみれば、3か月間は居候のようなものでした。それから、7月にそれぞれ各県に散らばって赴任していくということになりました。
丸山 また後でお話を伺いますけれども、やはり文書公開、情報公開の原点はそういうところにあったのですか。
片山 都庁や県庁の訪問にあったと思います。私は、どうして役所はこんななのだろうか、何でこんなに疑り深く冷たいのだろうか、革新県政、革新都政にしてこれかと、驚きを通り越して怒りすら覚えました。ですから、こういう体質を変えなきゃいけないというのが、私の原点になったと思います。
丸山 そういう原点でスタートされ、自治省にお入りになって、最初の地方勤務からお帰りになって、自治省税務局に配属されましたよね。その後、やはり特徴的なのは、税務署長として能代税務署にいらっしゃった、このへんのご経験というのはいかがでしたか。
片山 これは重要でした。たまたま税務署長の経験をさせてもらったのですけれども、税の第一線ですから、滞納処分という厳しい体験をすることになりました。滞納処分にはいろいろなタイプがありまして、脱税というか、本当に悪意に満ちた納税者もいないわけではありませんが、善意であっても滞納処分の対象になることはあるのです。租税債権が発生するときは調子がよかったのだけれども、いざ納税になるとお金がない。それでも滞納処分はやらなきゃいけませんので、それは非常に心苦しかったですよ。
といいますのは、地方の企業は滞納処分をするとだいたい潰れるのです。滞納処分に着手していいかどうかの決裁にハンコを押すのは税務署長なのですね。滞納処分のゴーサインを出すのは税務署長決裁なのですよ。このハンコを私が押せば、あの会社は潰れるなという、こういう因果関係があるわけです。ちょうど法務大臣が死刑の執行でハンコを押すようなところがありまして、とてもきつかったです。
ですから、税金の中にはこうやって取り立てた税金もあるのですから、税は無駄遣いをしちゃいけないというのが、また私の一つの原点となりました。
丸山 お若いときに税務署長になられたということで、仕事というのはそういう厳しいものであるということを学ばれたわけですが、先生は、税務署長になるに当たって、どのようなスタンスで仕事に臨まれたのでしょうか。
片山 税務署長になる前に自治省で税の仕事をやっていたのです。したがって、税は非常に関心が深い分野でしたし、国税は経験したことがなかったのですけれども、地方税も国税も似たところがありますので、それまで自分が学んできたことがずいぶん役に立ちました。しかも、理論だけではなく、実践で納税者と面と向かって強権発動をする場面もあるわけです。ですから、改めて税の本質を体得する機会にもなりました。とても貴重な経験を積ませてもらって感謝しています。
丸山 その後、鳥取県で総務部長を務められました。先生が知事になられる前のことですね。総務部長は大変な要職で、ご苦労されたと思いますが、このときはいかがでしたか。
片山 能代税務署長の勤務が終わって、まだ20代の頃ですが、鳥取県には課長として赴任していました。最初が地方課長、次に財政課長ということで。ここでも貴重な経験をさせてもらいました。まだ若造なのに、県の予算編成や、予算執行の元締めをやるわけです。それから、県議会への対応では執行部の拠点的存在でもあります。県議会への対応の仕方は、執行部側では財政課が切盛りするのですね。ですから、そのような県政の中枢の役割を担わせてもらったというのは、私にとってはとても貴重でした。今から考えますと、20代でよくそんなことをさせてくれたなと思います。ずいぶん大胆だったなと(笑)。でも、個人的にはとてもありがたい経験をさせてもらいました。
丸山実子 時事通信社内政部長