2019.06.25 政策研究
議会の取扱説明書
東京大学大学院法学政治学研究科/公共政策大学院教授(都市行政学・自治体行政学) 金井利之
はじめに
このたび、第一法規より『自治体議会の取扱説明書』を上梓した。これまで、冊子版『議員NAVI』での連載から、本電子版『議員NAVI』に衣替えしてからも、「ギカイ解体新書」の連載を続けてきたところであるが、相当の分量がたまった。また、雑誌連載という五月雨方式であると、まとまったかたちで読者に届けることもできない。加えて、『議員NAVI』以外にも、いろいろな媒体で自治体議会に関する論考を公表してきた。そこで、改めて再構成して、一冊にまとめてみたものである。ぜひ手にとってご覧いただければ幸いである。
拙書の中身は読んでいただくとして、若干、書いた後に思うことを触れてみよう。
「トリセツ」というタイトルの「トリセツ」
『妻のトリセツ』(黒川伊保子著、講談社+α新書、2018年)という書籍が出て、大ベストセラーになっているようである。もっとも、そこで書かれている内容は、科学的にはすでに否定されたこともあるという指摘もあり、「トンデモ本」の一種かもしれない(1)。その是非は素人である筆者には判別がつかないが、専門家からの「間違っている」という指摘自体には、耳を傾けなければならないと思う。
数式や統計がなければ安全か
もっとも、幸か不幸か、拙書はこうした統計とも数式・数字とも無縁の、ひたすらに実地観察に基づく情報収集に依存しており、「科学」的な「装飾」がされていないので、「科学」的な研究成果と思って鵜呑(うの)みにする人はいないだろう。経済学・統計学・社会学・心理学などの社会科学にも、「科学」的な「装飾」は有用になってきているので、本来的には、政治学・行政学や自治体学においても無縁ではない。ただ、拙書は、こうした誤解を受ける危険はないだろう。
もっとも「トンデモ本」現象は、統計データや数字・数式やグラフがほぼ必須である「自然科学」のような理科系に限らず、実は、数式とは無縁の文科系諸学にもある。最近では、深井智朗『ヴァイマールの聖なる政治的精神』(岩波書店、2012年)が、「2019年5月10日に公表されました東洋英和女学院大学調査委員会の報告書(以下、報告書)によりますと、本書には、研究上の不正行為にもとづく記述が含まれていること、具体的には、本書の第4章で紹介されている神学者カール・レーフラーなる人物、およびその人物が著したとされる論文は、いずれもその存在を確認できず、深井氏による捏造であると認定されました。/また、本書の197頁から198頁にかけての記述は、他の著作物の一部と似通ったものであることが指摘され、当該箇所は、深井氏による盗用と認定されました。/さらに、同報告書によりますと、『図書』2015年8月号に掲載しました、同氏による論考「エルンスト・トレルチの家計簿」には、存在を確認できない資料に依拠した記述が含まれていることが、認定されています。/小社は、すでに昨年10月、本書を出品停止にしておりますが、同報告書の判断を重く受けとめ、著者深井氏に連絡のうえで、本書を絶版とすることといたしました」として、絶版・回収となっている(2)。岩波書店自体が、東洋英和女学院大学とは別個に、どのように「不正」を認定したかは不明であるが、ともかく「トンデモ本」となってしまった。「トンデモ本」が市場に氾濫している中で、絶版・回収とは、厳しいことである。
また、歴史学は、もちろん統計を駆使するものも重要なのであるが、基本的には数式や数字による粉飾の余地はない。とはいえ、例えば、通俗的な「歴史」等というものは、歴史学の最新の研究では否定された事柄を、都合よく並べているものもあるという。
歴史資料のねつ造や偽書だけではなく、都合よく真実を選別して継ぎはぎし、都合の悪い真実を記載しなければ、歴史修正は可能である。むしろ、歴史などは、統治権力によって「正史」が都合よく捻出されるものであり、民衆権力によって耳障りのいい「野史」が創造されるものであるから、脳科学など以上に、「トンデモ本」の温床なのかもしれない。「トンデモ本」と付き合うのは大変である(3)。歴史物語や歴史小説さらには歴史フィクションは許されているのだから、なかなか厄介である。
こうしてみると、結果的に「トリセツ」と銘打ってしまった本書も、「トンデモ本」の一種と誤解されるかもしれない。
執筆の苦悩
なかなか悩ましく、学問的に正確な書籍は一般読者に届かず、一般読者に届く書籍は学問的に不正確、ということがある。学術的には証拠をもって断言できないが、確からしいと心証を持てる事柄もある。読者は読みたいものしか読まない、ともいう。
読者は学問的な専門家ではないから、素人としての思いを持っている。その中には、各種の偏見もあるかもしれない。偏見に満ち満ちた一般書を好む人もいるかもしれない。そのような読者層を前提にすれば、資本主義市場経済では、こうした偏見に即した書籍が売れることになる。「嫌韓・反中」本や「日本礼賛」本が書店で山積みになるのは、列島にいる読者の偏見を正確に反映するのが資本主義市場経済だからであろう。また、民主主義ポピュリズム政治では、こうした偏見に即した政治家も当選する。
そして、専門家も、しょせんは凡人であり、素人と同じような偏見を持っている者もいる。ただ、専門家は、そうした偏見を学術的な「粉飾」を込めて提示することもあるから、素人よりタチが悪いかもしれない。しかし、学術のルールに従って自らの偏見を封印することもあろう。ただし、前者の専門家の方が、経済的にも政治的にも成功する。
さらにいえば、専門家集団の多数が偏見を持っていれば、専門家が学術的に「正しい」と提示すること自体が、偏見を学術的に偽装したものにすぎないかもしれない。神が世界を創造したという偏見のもとでは進化論は否定され、弱肉強食・適者生存の市場経済原理・自己責任が正しいという偏見のもとでは、社会進化論を背景にして、生物進化論が肯定される。日本のように自己責任論が強い国では、進化論が否定されることはない。しかし、アメリカのように、キリスト教原理主義と市場原理主義=自己責任論の両方がどういうわけか両立しているところでは、進化論の肯定論・否定論がせめぎ合うわけである。
政治家も同様である。しょせんは偏見の固まりでもありうる。多数党派とは世の中の多数派の偏見の固まりかもしれず、首長とは地域の多数派の偏見の固まりかもしれない。少数党は世の中の少数派の偏見の固まりかもしれないので、「同罪」である。ただ、少数派の偏見は力がないので、実害が小さいだけである。
ネットの世界も同様である。フィルターバブルというように、読者は自分の偏見に合わせて選別的に情報に触れるので、自分の偏見が「不偏不党・中立公正」の知識であると「知覚」=錯覚できる。そうしたネット空間上に満ち満ちている偏見を深層学習するのが、いわゆるAIである。AIは、膨大な情報を渉猟したと称して、ネット上の偏見を我々に「確定された最高の知識」として提供するものである。このようにビッグデータという神話が伴うと、脳科学と同様に、「科学的装飾」が可能になる。
おわりに
要するに、拙書は、「議員バッシング」という世間の偏見に阿(おもね)った「トンデモ本」のようなタイトルになっているということである。そして、書籍という商業出版で生き残っていくためには、市場セグメントの偏見又は要望に応じた、偏見の再生産となっている危険もある。
自治体議会の研究と実践とは、まさに、世間を覆っている偏見との戦いでもある。民主主義であるから、議員は住民の偏見の中からも生まれる。また、そのような偏見のゆえに、議員にならない人も多い。そして、当選した議員は、住民の偏見にさらされることもある。しかし、偏見に基づく批判や改革論は、正確な分析に基づくものではないので、効果を持たない。偏見と戦うために、偏見を利用することができるのか。偏見は偏見で解毒できるのか。悩ましい執筆・編集作業であった。
(2)岩波書店「謹告」(https://www.iwanami.co.jp/news/n29826.html)。
(3)呉座勇一「八幡氏への反論:歴史学者のトンデモ本への向き合い方」アゴラ言論プラットフォーム2019年3月6日17:00配信(http://agora-web.jp/archives/2037618.html)。