2019.03.25 政策研究
伝統文化を守りながら漫画をサブカルチャーに
元日本経済新聞論説委員 井上繁
「60年以上も前に六次産業化の旗を振り、実践した女性がいます」といって熊本県湯前(ゆのまえ)町の鶴田正已町長から受け取ったのは『下村婦人会市房漬加工組合・山北幸物語・繋(つな)ぐ』という漫画本である。2013年に99歳で他界した山北さんは、1950年代から食の安全・安心や地産地消を信念として、仲間とともに地元の農産物を漬物にして販売した。その取組みが1971年に『暮しの手帖』で紹介されてから下村婦人会の漬物の販売先は“全国区”に躍り出た。発行した湯前町生き残り事業推進連携協議会会長でもある鶴田町長は「山北さんの熱い、強い思いを後世に分かりやすく伝えるため、漫画にした」という。漫画をサブカルチャーと位置付ける町らしい試みである。
同町は1937年に町制を施行して以来、一度も合併を経験していない。人口は3,985人(2015年国勢調査)で、最も多かった1955年の半分以下に減少している。高齢化率は41.4%と高い。漫画本の発行団体に「生き残り」とあるのは、こうした厳しい現状を踏まえてのことだろう。
湯前町を含めた人吉球磨(くま)地域は、2015年に「相良700年が生んだ保守と進取の文化~日本でもっとも豊かな隠れ里~」として日本遺産の認定を受けた。湯前町では、旧石器時代の遺構が見つかっている。鎌倉時代には、現存では九州で2番目に古い木造建築とされる城泉寺の阿弥陀堂が建立された。中世から近世を通じて相良氏の統治の下、比較的安定した治世で推移したこともあって、さらに多くの貴重な文化財を残した。
建造物だけでなく、伝統芸能や集落を中心とした祭礼行事、球磨焼酎をはじめとする伝統産業、下村婦人会の漬物などの伝統食、独特の風習などが脈々と受け継がれてきた。2017年には国の歴史的風致維持向上計画の認定を受け、「未来につなぐ歴史まちづくり」を推進している。こうした古くからの町の歴史や伝統文化を大事にしながら、比較的新しい漫画をサブカルチャーとして育てようというのが町の戦略である。
漫画のまちづくりの中心的な役割を担っているのは町立の「湯前まんが美術館」である。町出身の政治風刺漫画家・那須良輔氏の功績を保存、展示する施設として1992年に開館しており、別名那須良輔記念館である。建物は球磨地方の杉とヒノキを使用し、地元の伝統的な大工技術を駆使した木造である。その外観は、球磨の伝統玩具であるきじ馬をイメージして設計された。館内には氏の書斎も再現している。常設展のほか、特別展を年6回程度催している。湯前まんが美術館の設置及び管理に関する条例を開館の年に公布、施行している。
美術館の最大の行事は、那須良輔風刺漫画大賞の選定である。テーマは政治、経済、国際問題から身近な暮らしの話題まで自由。風刺のきいた楽しい作品を主催者は期待している。高校生以上の一般部門と、中学生以下のジュニア部門に分かれ、一般部門の大賞の受賞者には賞金50万円が贈呈される。27回目の2018年度の応募数は両部門合計で446点と前年度より20.1%減少した。
湯前駅からまんが美術館前の広場までの道路沿いには歴代風刺漫画大賞の作品を並べている。11月の第2土曜日と日曜日に開かれる「ゆのまえ漫画フェスタ」は町最大の漫画の祭りである。大賞など各賞の表彰式のほか、漫画家のサイン会やトークショー、アニメソング歌手によるミニライブなどが行われる。
2017年には湯前駅前のスモールハウスと呼ぶ平屋の建物内に町が湯前まんが図書館を開設した。収蔵している3,500冊を館内で自由に読むことができるが、貸出しは行ってない。これ以前のまんが図書館は別の施設を利用して期間限定で開いていた。新施設に移転して年末年始以外は毎日利用できるようになった。
小・中学校では総合的な学習の時間に年2回オンライン漫画教室を開いている。マンガ学部を設置している京都精華大学や、芸術学部デザイン学科にマンガ表現コースをもつ崇城(そうじょう)大学(熊本市)の協力で、これらの大学と教室をインターネットで結び、生徒たちはウェブ会議システムやペンタブレットなどを使って人物の描き方などを学ぶ。授業で漫画も学ぶ児童、生徒は将来、どんなまちづくりのデザインを描くだろうか。
「井上繁の地域づくり見聞録」は今回が最終回になります。長い間のご愛読、ありがとうございました。