2017.05.25 政策研究
第12回 住民自治の進展(下)――地域経営の新たな手法――
補足:地方議会の精神史的地位(試論)
地方議会は、議会主義あるいは議会制民主主義と同一視することはできない。議会主義の起源が、貴族主義・身分制に基づいていたという理由ではない。議会の発生史(租税のチェック)を考慮して、議会を監視機能と規定する誤解を解くことが必要である。しかし、それ以上に重要なことは、地方議会は住民に身近であり恒常的な参加が期待されるのであって、国民代表制原理を内包している議会主義あるいは議会制民主主義とは一線を画す必要があることである。そもそも地方議会は、議院内閣制を採用していないこと(したがって与野党関係は存在していない)だけではなく、直接民主制(直接請求権等)を積極的に採用していることでも国会とは異なっている。その直接民主制の積極的採用は、日常的な住民参加が行政にも議会にも必要なことを示している。この住民参加を制度化した議会とならなければならない。
とはいえ、地方議会を考える上でやっかいなのは、地方議会の原理(精神史)が不明瞭なことである。結論を先取りすれば、住民参加と連動するアメリカ地方自治の精神を導入した戦後改革とともに、日本に存在していた寄り合いといった住民による運営のルールである民主主義を起源とする側面だけではなく、中央集権制を貫徹させる官治主義を起源とする側面、権力制限を課題とする自由主義を起源とする側面があり、これら3つの側面の混合として実際には地方議会は制度化され運営されている。住民自治を強調しつつも、議会と住民参加の関係を問う(民主主義的側面や権力制限的討議重視の自由主義的側面の強調)だけではなく、日々浸透している官治主義の弊害を取り除く作業を日常的に行っていかなければならない。そこで、地方議会の存在根拠(C.シュミットの用語を活用すれば精神史的地位)を検討することから始めよう。
①官治主義。日本の地方自治の成立が、中央集権制を推し進めるためのものであったことを考慮すれば、地方議会もその一環として制度化されたと考えてよい。日本の地方制度を確立したといわれる山縣有朋は、それに「民主主義の小学校」という役割とともに、自由民権運動によって混乱している「中央政局の変動の影響を地方行政の場に波及させない」役割を見いだしていた(橋本 1995:18)。山縣の意図が前者を含むものであったにせよ、歴史的現実は官治主義、中央集権制の徹底としての地方制度の導入であった。
戦後は、アメリカ合衆国の思想に基づく地方制度が確立した。しかし、戦後の日本の地方制度のエートスは、戦前の地方制度を継承していたし、制度としても機関委任事務をはじめ戦前の発想を踏襲しているものも少なくはなかった。そもそも、地方自治法で、地方自治体の組織や運営を規定していることに見られるように、相変わらず官治主義は、地方議会の精神史上の1つである。
②自由主義。国会が同様に議会という名称であることから、国会の模写として地方議会を理解する立場がある。国会の起源は、自由主義(権力制限)や貴族主義(少数支配)に基づいている。国会の起源は、封建時代の等族会議にある。そこでは、国王の課税権に承認を与えることをその主要な任務としていた。国会は専横な権力の作動を制限抑制する機能を担っていた。権力制限(制御)的な自由主義と合致している。市民革命後の議会は、国民主権の下で最高性を有するようになる。「イギリス議会は、男を女に、女を男にする以外の一切をなし得る」といわれるように絶対的な権限を有することになる。とはいえ、権力制限的な自由主義と矛盾するものではない。
自由主義や貴族主義に基づいた議会は、普通選挙制が成立すると議会制民主主義といわれるようになる。自由を基調とする自由主義と平等を基調とする民主主義との微妙な共存が生まれた。議会は自由主義に基づくもので民主主義にはなじまない(C.シュミット)と断言できないまでも、その関係のあり方が問われることになる。自由主義に含まれている権力制限の要素を踏襲しながら、選挙によって当選した議員に信託する原理である国民代表制原理とは異なる民主主義を原則(日常的な住民参加の導入)とした地方議会を構築する必要がある。
③民主主義。戦後日本に埋め込まれた地方自治の精神であるアメリカ合衆国の地方自治は、住民自治、その中でも徹底した民主主義を基調としている(小滝 2005:163)(7)。しかし、確認しなければならないことは、民主主義の精神と実践は、単なる借りものでも、注入されただけのものでもないということである。日本には、地方の出来事が寄り合いという住民自治の制度によって調整され運営されてきたという歴史的事実がある。外来の民主主義原理を受け入れる素地は日本には宿っていた。寄り合いのように「すべての人が体験や見聞を語り、発言する機会を持つということはたしかに村里生活を秩序あらしめ結束をかたくするために役立った」(宮本 1984(1960):21)(8)。
寄り合いを構成していた人たちは、世帯主であり男性であった。その意味では、今日から見れば問題のある制度である。しかし、古代ギリシャの都市国家の民主主義が、奴隷や女性を排除した市民によって構成されていることを考慮して、それだけで民主主義の原理を否定するわけにもいかない。そもそも、政治的な権利を有する住民だけで地域経営はできない。古代ギリシャでも、政治的権利を有する者による討議だけではなく、奴隷、外国人、女性なども含めた地域の出来事の議論も大きな影響を与えていた(桜井 1997)。日本でもかつての寄り合いは、少なくとも関西から西では「郷士も百姓も区別はなかった。……(中略)……村落共同体の一員ということになると発言は互角であった」という指摘は、地域の担い手が地域の居住者であることを物語っている(宮本 1984(1960):19-20)。
寄り合い民主主義は、一方で戦前の隣組として再生し軍国主義の末端基幹を担い、戦後においてもその性質を残しているところもある。他方では、アメリカの地方自治原理を借用しつつ、戦後の地方自治の原理として再生してもいる。住民参加を重視する寄り合い民主主義の精神は、議会主義や議会制民主主義と親和性のある国民代表制原理とは一線を画している。