2017.06.12 政策研究
現役最古級の映画館を再生
元日本経済新聞論説委員 井上繁
「映画はほとんど見ません。古いものにも興味はありません」。新潟県上越市のNPO法人街なか映画館再生委員会のA委員長は、筆者が写真を撮りやすいように、開館前の「高田世界館」2階の窓を開けながらこう語った。「それなのになぜ」という質問に「中心市街地が疲弊してく中で、皆が集まる場所をつくりたかったのです」と付け加えた。
映画館の中央部は吹き抜けで、ヨーロッパの古い神殿を思わせる重厚な丸い柱が並んでいる。正面部分と客席の天井にも洋風の意匠が残っている。外から改めて見ると、壁は白く、全体は洋風のレトロなつくりである。
再生委員会のメンバーの1人である建築家のBさんによると、「明治末期の1911年に芝居劇場・高田座として現在地に新築、開業した記録が残っており、国内では現役最古級の映画館」という。同じように古い長野市の映画館「長野松竹相生座・ロキシー」とは交流を深めている。大通りから映画館の入り口までは雁木(がんぎ)と呼ばれるアーケード状の軒先が続いている。
この建物は当初、芝居劇場として建てられた。1916年に活動写真館「世界館」に改称して、常設の映画館になった。その後、名前やオーナーを変えながら今日に至っている。高田世界館という現在の名前に変わったのは2009年である。
2007年の新潟県中越沖地震の後、雨漏りが発生し、オーナーが閉館を検討した。これを耳にした4人の有志が「本町6丁目映画館を保存する会」という任意団体を結成し、雨漏り修繕費などの資金獲得に動き出した。同会は、2009年6月に新潟県の認証を受け、NPO法人街なか映画館再生委員会に衣替えした。
これより前の2009年2月に、この映画館は、経済産業省から「近代社会の発展とともに花開いた都市の娯楽・消費文化の歩みを物語る近代化産業遺産群」として、東京の市政会館・日比谷公会堂や三越日本橋本店本館などとともに、近代化産業遺産に認定された。保存する会は、同年4月には、3月で営業を停止した映画館の建物を譲り受けた。高田世界館が国の有形文化財に登録されたのは2011年である。
再生委員会が建物を取得して数年間は、貸し館が中心で、主に週末のイベントの会場として使っていた。週1日の休映日以外は毎日、小規模の配給会社の作品を中心に午前中から夜まで1日4回上映するようになったのは2014年からである。
今、再生が軌道に乗ってきたのは、その手法に工夫があったからである。第1に、再生委員会は、公的機関などに働きかけて、その支援を得ることに力を入れた。上越市は、2009年3月に歴史的建造物等整備支援基金条例を公布した。これに基づく支援事業は事業費の4分の3を補助するという手厚い条件だった。その助成の第1号の1つとして再生委員会は市から3年間で総額750万円の補助金を交付され、館内の椅子や床の張り替えなどに当てた。
再生委員会はこのほか、上越市高田区地域協議会、新潟県勤労者福祉厚生財団(当時、現新潟ろうきん福祉財団)、ハウジングアンドコミュニティ財団、東日本鉄道文化財団などからも助成を受けた。近代化産業遺産の認定が、助成獲得の追い風になり、この事業が各方面から支援を受けやすくなったことはいうまでもない。
第2は、活動に市民やファンを巻き込んできたことである。2009年に館内の椅子を張り替える際は、座席にネームプレートを付けるマイチェア募金を行い、250万円集めた。椅子を取り外す作業も参加者全員が手弁当で2日がかりで行った。2011年の瓦のふき替えでも募金を集めた。県外からの募金者も含め、新しい瓦の裏面に各自が思い思いのメッセージを書き込んだ。
再生委員会の主力は、A委員長とBさんのほか、映画鑑賞団体会長のC氏、弁護士D氏、地元放送局取締役局長E氏などで、それぞれのプロをアマチュアの委員長がまとめている構図だ。意思決定が速く、弾力的な運営ができるのは、これらのメンバーがそれぞれの専門性を認め、信頼し合っているからである。