2016.10.11 政策研究
厳守すべき「横断歩道での歩行者優先」
元日本経済新聞論説委員 井上繁
中央駅の時計塔のてっぺんでベンツのマークがくるくる回っているドイツ・シュトゥットガルトはこの国有数の「車の街」である。日曜日に、この駅から市内電車のSバーンに乗って5つ目の駅で下り、ホテルに向かってキャリーバッグを引いて道路を渡ろうとしたときの出来事である。そこには信号がなく、横断歩道があるだけだった。初めての土地でもあり、左右の車をしっかり確認しようとしたところ、横断歩道の手前で車がさっと停止して、渡らせてくれた。何とも絶妙な間合いだった。
この出来事は、重そうな荷物を携行した外国人への特別のサービスだったのだろうか。横断歩道が臨める立体駐車場の日陰から歩行者と車の関係を観察することにした。30分ほどの間に12人の歩行者と2台の自転車が横断したが、その間、すべての車が歩行者優先に徹していた。つまり、歩行者や自転車が横断歩道の手前で立ち止まるのでなく、横断歩道に向かう歩行者などを見かけると車が事前にその手前の白線のところで完全に停止して、横断を待つのである。
歩行者の多い場合はどうなのだろうか。平日の朝の通勤時間帯に同じ地点でもう一度、観察した。横断歩道の先には10棟近い新しいビルが並び、電車が着くたびに30~40人の男女が横断して職場へ急ぐ。歩行者が続くと車は停止したままとなり、一時は100メートル以上の車の列ができた。
同国ノルトライン・ベストファーレン州の人口1万8,000人の地方都市のロータリー近くの横断歩道でカメラ片手に止まったら、逆に停止した車がクラクションを鳴らして横断を促してくれたこともある。
この国を何度も訪れていながら歩行者優先が徹底されている事実にこれまで気づかなかったのは、都市の中心市街地を多く歩いていたためだろうか。中心市街地では、車や歩行者は信号に従って動いており、歩行者天国もある。譲り合いの精神を発揮する場面に出合わなかっただけのことと思い至った。
この出来事を経験して、日本の現状に改めて思いを巡らせる。信号のない交差点や道路で歩行者が横断歩道の前に立っても停止する車は少なく、車の列が途切れるのを待ってから渡るのが当たり前のようになっている。筆者がドイツでとまどったのは、交通事故から身を守るための日本での習慣が身についていたからに違いない。
日本の道路交通法には、横断歩道等における歩行者等の優先規定がある。同法第38条第1項前段には、車両等は、横断歩道等に接近する場合には、横断しようとする歩行者等がないことが明らかな場合を除き、その横断歩道等の直前(停止線が設けられているときは、その停止線の直前)で停止できるような速度で進行しなければならないという趣旨の記述がある。同項後段は、「この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない」と述べている。
同趣旨の規定があるドイツでは、ドライバーがそれを厳格に守っているのに、日本ではなぜ厳守されないのだろうか。それだけでなく、信号のない横断歩道を渡っていた歩行者が車にはねられる事故さえ発生している。
第38条の違反者には、3カ月以下の懲役または5万円以下の罰金、過失により違反した場合は10万円以下の罰金が科せられ、反則金や違反点の制度もある。ただ、横断歩道での歩行者優先についての警察の取締りを見聞きした人は少ない。
日本自動車連盟(JAF)は、2016年6月にホームページ内で会員を対象に「交通マナ―に関するアンケート」を行い、6万4,600余件の回答を得た。この中で、「信号機のない横断歩道で歩行者が渡ろうとしているのに一時停止しない車が多い」という設問では、全体の43.7%が「とても思う」に印を付けている。
法に規定されている横断歩道での歩行者優先は、マナーというより、ハンドルを持つ人の義務である。悲惨な交通事故を減らすために、違反が常態化している現状にメスを入れるべきではなかろうか。