2020.07.27 政策研究
第4回 近接性(その3)
東京大学大学院法学政治学研究科/公共政策大学院教授 金井利之
自治体は自由の敵?
政治的な距離の近さとは、為政者と民衆個々人(の多数派)の好みが近いことである。それ自体は、民主主義的な価値観からは好ましいことと考えられる。つまり、個々人やその集合体としての民衆の意思と為政者の政策判断が近いのであって、為政者は民衆に寄り添った政策を展開していることになるからである。
しかし、個々人と為政者の好みが近いということからは、どちらが権力を持つか、あるいは、因果関係の矢印がどちらに向いているのかは、明らかではない。為政者が個々人に近づいてくることもあれば、個々人が為政者に近づくこともある。一般的にいって、為政者は個々人より権力を持っている。したがって、個々人が為政者に近づく方が、為政者が個々人に近づくことより、はるかに実現可能性が高く簡単であろう。つまり、個々人は為政者に寄り添って判断をする。いわゆる「適応的選好形成(adaptive preference formation)」(1)である。為政者と個々人の政策指向性が一致しているということは、「民主」的であるとともに、独裁的なのかもしれない。
そもそも、個々人は多数であり、多様な選好を持つかもしれない。そのときは、単一の為政者は全ての個々人に近づくことは不可能なのである。一部の個々人に為政者が近づいても、他の個々人からは遠のくことになる。逆に、多数の個々人は単一の為政者に近づくことは可能である。為政者が個々人に近づく民主制は個々人の多様性を前提とすれば不可能に近く、個々人が為政者に近づく「民主」制の方が可能である。このように、「民主」制は、画一性や独裁制とは相性がよいのである。例えば、北朝鮮の正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」である。日本でも政党名に「民主」を名乗ることや、活動方針において「民主的」とか「民意」に言及することはあるが、それ自体は、一強体制・独裁制を否定することは意味しない。むしろ、民衆の意思を為政者の意思に従属させる支配権力への、為政者としての自信の表れかもしれないのである。
自治体が近接性を持つということは、自治体の方が国よりも「民主」的であることかもしれないが、それは同時に、個々人の自由が認められていないことを意味するかもしれない。日本の自治体では、しばしば強力な首長や有力者が現れ、「王様」、「皇帝」、「女帝」、「黒幕」、「ドン」のような存在になっていることがある。国政の第2次安倍政権は「一強支配」といわれ、憲政史上最長の政権をほしいままにしているが、それでもいまだ10年に満たない。自治体首長の10年とは、3期目途中に相当するが、3期連続政権などはむしろありふれた現象である。だからこそ、細川護煕・元熊本県知事(元首相)は「権不十年」と唱えていた(そして、権力に恋々とする佐藤栄作などと異なり、潔く、細川は首相のポストを1年未満で辞任した)。
もちろん、国政宰相の大権と集権国家日本の中における自治体首長の権力とは、天と地ほどの違いともいえるが、それでも、当該自治体内では「独裁」的でもあり得る。北朝鮮が世界的に見ればいくら小国であるとしても、北朝鮮人民にとっては巨大であるのと同じである。
地域社会は自由の敵?
近接性を持つ自治体で個々人の自由を抑圧するのは、「小皇帝」である首長だけではない。そもそも、首長は、個々人に対しては圧倒的な権力を持つが、個々人は数が多く、集合した群衆となれば、「ちりも積もれば山となる」であって、大きな権力を持つこともある。つまり、個々人は為政者に寄り添って意思形成するが、為政者は自由放埒(ほうらつ)に意思決定しているのではなく、群衆としての大勢に寄り添っているのかもしれない。その限りで、首長は独裁者でも何でもなく、やはり、群衆又は民衆の最大公約数的な意思(民意)に寄り添っているのであって、「民主」的統制のもとにある。客観的には独裁者であっても、為政者自身は主観的には自らは決定していないという意識を持つ無責任体系は、その一つである。
もっとも、そのとき、群衆の個々人はいかなる形で意思形成しているのかは、誠に難解である。個々人から見れば、為政者も圧倒的な権力者であるが、自分以外の全ての人々という意味での群衆も、圧倒的な権力者である。自分以外の多数の個々人を統制することなど、およそありえない。不可能なことを選好しないものである。そこで、より実現可能な方策として、個々人は、権力者である群衆、すなわち、自分以外の個々人からなる他者集団に寄り添うしかない。個々人は他者に合わせて意思形成するが、その他者集団なるものの実態は個々人の集積である。個々人に分解すると、それは自分自身の意思を持っているのではなく、他者集団を右顧左眄(うこさべん)しているだけである。
例えば、A、B、C、D、Eの5人の集団で図式化すれば、以下のようになる。AはB、C、D、Eという他者集団に合わせる。BはC、D、E、Aという他者集団に合わせているだけである。CはD、E、A、Bに準じただけである。DはE、A、B、Cに従っただけである。EはA、B、C、Dの意向を踏まえただけである。つまり、誰一人として、自分の意思を持っていない。だから、A、B、C、D、Eが集団としてXという政策選択をしたとしても、誰の選好をも反映していない。ただし、結果として、個人であるA、B、C、D、Eはいずれも、他者(残りの4人)がXを選好したと忖度(そんたく)して、自らもXに同調しただけである。そして、A、B、C、D、Eはいずれも個人としてXを同調的に選好し、また集団としてのA、B、C、D、EにはXという政策にコンセンサスがある。極めて「民主」的な集団になるのである。
こうした状況が地域社会の同調圧力である。このような地域社会を基盤とする自治は、極めて「民主」的であり、人々から近い存在である。その意味で、「ムラの自治」は身近な、意見対立のない、コンセンサスのある意思決定である。地域社会から遠くになればなるほど、集団的なコンセンサスは形成されず、個々人の意思や好みとは異なる政策選択が、為政者によってなされてしまう。それゆえ、地域社会や自治体の近接性は大きな強みである。しかし、その近接性は、個々人の自由な心証形成を阻害する同調圧力のもとで形成されたものかもしれない。となると、近接性の強い自治とは、個々人の自由の抑圧でしかない、重苦しい柵(しがらみ)である。