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2020.06.25 政策研究

第3回 近接性(その2)

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東京大学大学院法学政治学研究科/公共政策大学院教授 金井利之

余談であるが……「社会的距離」と「物理的距離」について

 新型コロナウイルス感染症対策において、人と人との間を空ける「ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)」なるものが、英語力の低い日本では推奨されている。蜜を吸うために為政者や一部企業が得意とする密着・密室・密談のことではなく、密集・密閉・密接のいわゆる「三密」を「断密」するのがねらいである。もっとも、WHOは、「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」ではなく、「物理的距離(フィジカル・ディスタンシング)」と呼ぶことを推奨している(1)
 理由は簡単である。感染症対策には、人間と人間が物理的に三密になることが問題なのであって、社会という人間関係として、お互いが疎遠になることが必要になることではない。むしろ、離れていてもつながっていることこそが推奨されている。その意味で、「社会的距離」をとるというのは、よくないわけである。よく、下手な三文エロ小説で、「体はつながっても心はつながってない」などというのがあるが、これは、社会的距離はあっても物理的距離はないわけである。これでは感染症対策にならない。「ホーンテッドマンション」のような赤く妖(あや)しげなライトアップの館などがある新宿などの「夜の街」が執拗(しつよう)に敵視されているのも、客と接客者(ホストなど)という経済的関係だけであり、社会的距離は大きいにもかかわらず、物理的距離が近いからかもしれない。
 もっとも、社会的距離と物理的距離は、満員電車では重要である。客観的にいって、サラリーマン等が押し込められる満員電車は、三密そのものに思える。しかも、それをなかなかやめることができない。完全テレワークとはいかないからである。しかし、よくいわれるように、満員電車では、お互いを人間としては認識せず、単なるモノとして無視する。無視することで、何とかやり過ごしている。つまり、物理的距離は近いが、社会的距離はものすごく遠い。
 もし、満員電車内の混雑において、至近距離の物体を人間と認識したら、お互いに不快であり、ときに犯罪である。実際、痴漢行為が横行するのは、このような物理的距離の近さを社会的距離と勘違いして、密着した相手を触っていいなどと錯覚し、あるいは、相手をモノとみなし、さらには、相手は人間とみなさないだろうから反撃されないだろうと高をくくるわけである。それはともかく、満員電車では、物理的距離は近いが、社会的距離は遠い。社会的距離が遠いことは、会話をしないことであるから、飛沫(ひまつ)も飛ばない。いわゆる、密集・密閉ではあるが、密接ではなくすることができる。つまり、物理的距離が近いときには、社会的距離をとるのも、苦肉の策にはなっている。
 また、社会的距離とは、むしろ、一つの社会の中で分断が起きていることをイメージさせる。ところが、感染症は、富裕層・中間層に比べて、貧困層により被害が大きい。ウイルス自体は階層差別をするものではないが、栄養状態・衛生状態などからくる抵抗力は、明らかに階層格差がある。つまり、感染症は、社会的な分断の激しい格差社会では、より深刻になっている。そのような中で、「社会的距離」を推奨したら、ますます、貧困層を排除・隔離・収容しよう、というような逆行するメッセージを与えかねない。その意味で、社会的距離という用語は、世界的には推奨されていないのである。

話を戻して……地理的距離と政治的距離

 自治体は近接性が高いというのは、単に現場出先機関・地域施設の行政サービスに接近しやすいということに限らない。あるいは、在宅サービス配送の多寡という問題に限らない。もちろん、こうした行政的距離の近接性も重要であるが、これらの現場出先機関・地域施設や最前線のサービス配送職員の行動は、基本的には本庁の政策決定に枠付けられている。とするならば、やはり、政策決定という場(アリーナ)への距離が問題になろう。国・自治体の政策決定は、基本的には、本庁の所在地で行われるのである。中心点で見た地理的距離が、同時に政治的距離となるならば、市区町村<都道府県<国となる。

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