2014.05.12 議員活動
質問力を上げよう 第3回 一般質問を資源として考えよう~「ひとりぼっちの質問」を超えて~
議会と議員と一般質問
──一般質問は主役ではない
この連載では、一般質問に焦点を当てて、その機能が発揮されるためのポイントを示してきた。
ところで、自治体議会の解説書を読んでも、一般質問についてはさほど多くを語られてはいない。「八百長と学芸会」⑴は、二元代表制の一翼であるはずの議会の現状や議員の資質を批判する表現として、批判する側にもそれを超えようとする側にもよく使われるし、議会改革の進捗を示す指標のひとつには一問一答方式の導入や質問回数の制限撤廃が挙げられるが、その程度である。
それはある意味当然でもある。一般質問がその機能を発揮するかどうかは、個別の質問の質がどうか、またそれに加えてその問題や議員をめぐる政治状況に大きく左右される。そしてより本来的には、議会は合議機関⑵であり、議員による議論がその核心であって、議員がひとりで執行機関に問い質す一般質問は脇役にすぎないともいえるのだ。
しかし、議員がひとりで行うものであっても、それは個人的にではなく議会の一部として、市(町村都道府県)政の監査機能、政策提案機能を担う行為でもある。
一般質問の可能性も限界も、この「議員がひとりで」行うものというところにある。逆にいえばそこを超えて「議員ひとり」と「議会」の間を埋めることが、一般質問を議員としてでなく議会として活性化させる可能性につながると考えられる。本稿では、ひとりで行う一般質問の可能性と限界、そしてさらなる可能性について、期待も込めて考察してみたい。
一般質問の可能性と限界
(1)議会改革の潮流と一般質問
一般質問における一問一答方式の導入は目覚ましく進んだ。全国では7割、市では8割⑶に近い自治体で一問一答方式を選択することができる。だが、一問一答方式の導入で、一般質問は活性化しただろうか? 「八百長と学芸会」、本会議でのオネダリは超えられただろうか?
連載初回で述べたように、緊張感のある議論や論点の分かりやすいやりとりになるかどうかという点では、一問一答か一括かという質問方式よりも、持ち時間と質問回数によるところが大きい。議論として成立する一般質問の形態を考えるとすれば、いずれの方式であっても、再質問回数無制限、片道30分の確保、答弁調整は、執行機関側がかみ合った答弁を作成できるように質問の論点と趣旨を伝えるためのものとして限定的に行う、という水準が目指されるところなのではないか。
だが、その水準を確保したからといって、一般質問が活性化するとは限らない。仕組みは舞台装置であり、当然だが、最も重要なものはそれぞれの議員が行う質問の中身である。
(2)「ひとりでもできる」ことの可能性と限界
質問力を向上させ一般質問をより良くすることは、議員ひとりでもできる。本連載はその「ひとりでもできる」改革の可能性を示してきたともいえる。政策は常に個人の思考から発想される⑷のであり、議会の一部である議員が気づく問題や解決の構想を市政に直接問うことで、監査機能や政策提案機能を果たしうる。
議会改革が全国的な潮流となっており、その変化は少なくとも制度的には大きく広がっている。だが、議会は議員の集合体であって、良くも悪くも集合体の変化は個人の変化を飲み込んで、ゆっくりしたものになりがちである。議会改革がなかなか進まないと感じている議員、カタチは進んでもその実態に問題意識を感じている議員にとっては、一般質問の機会は重要である。また、優れた一般質問が議員同士の刺激になり切磋琢磨につながれば、議会そのものの活性化にもつながりうる。
だが一方で、「ひとりでもできる」ことは、「ひとりにすぎない」ことでもある。
一般質問は、議員のひとりの主張にすぎないし、政治の状況によってその影響力は議員数分の1にもならないことがあり得る。政治の世界の実際として、議案説明や答弁にいわゆる首長与党か野党かであるかによって、答弁の内容や、ところによっては議案説明など制度上も差がついている議会もある。もちろんこの状況は二元代表制の一翼としての議会の一体性を切り崩すもので、受けるべき監査や政策提案が政治的状況によってかわされたり流されたり、特定議員の情報格差があったりすれば、議会として克服するべき状況である。だが、現にある。
一般質問は「ひとりぼっち」でやることという限界を超えられるか。一般質問を議員の知見が集約される政策資源として見れば、むしろ、一般質問をひとりのものだけにしておくのはもったいない。一般質問を議会として、議員同士で生かしていけないものだろうか。