2020.12.10 コロナ対応
第9回 災害としてのCOVID-19と議会自治
龍谷大学政策学部教授 土山希美枝
災害と議会
災害時の議会の対応は、難しい。
その難しさにはいくつか理由が挙げられる。一番本来のところから挙げてしまえば、議会は、合議で意思決定を行う機関であり、それには、議論する対象が具体化されて、議員が集まって、場が整う必要があるのだが、発災間もない頃はそもそもそれどころではないからである。
ついで、議員はそれぞれ異なる「現場」を持ち、発災時の状況、またその後の災害への対応もそれぞれ異なる。発災直後、本人、家族の安全を確保した後は、地域か、生業(なりわい)にかかわる共同体か、幅広い市民や後援者か、様々なそれぞれの「現場」で、災害という衝撃へ対応を始めるだろう。その「現場」対応が、議員としての職務なのか、市民としての、同業者の互助としての活動なのかについても峻別(しゅんべつ)できるわけではない。行政職員は違う。職務中はもちろん、在宅中でも、本人と家族の安全を確保した後は庁舎へ向かい、そこが「職務」かつ「現場」となる(もちろん、行政職員にもそれぞれ市民としての状況や立場や葛藤がある)。それを前提に防災計画や事業継続計画(BCP)を設定することができる。
議会と議員のあり方はそうではない。しかし議員それぞれの多様な「現場」でも様々な課題が現在進行形で起こる。それがそのまま議会事務局や行政に流れ込むと、もちろん処理しきれない質量になる。
このように、そもそも災害では想定外のことが起こるが、それに加えて議員の状況や活動については属人性が高い。東日本大震災のときには議会中で議場に議員が集まっていた自治体もあるが、「議会」が災害対応に起動するのは前述の前提が整うときで、一般的には一定の時間がかかる。しかしBCPをはじめとする行動規範は標準化されたものとして設計されるので、そうすると「情報は(行政から議会へ)流す」ことと「議会(議員)は邪魔せず黙っている」ことが基本になってしまう。
「行政の邪魔をしない」。では、「議会は何をしているのか」
「災害時の議員のトンデモ要求」を、実際、耳にすることがあり、中にはそれをぶつけられる側に共感を禁じえないというか、義憤すら感じさせられるものもある。災害時の様々な混乱の中で、人間が議員また市民としてあるべき振る舞いを常にできるとは限らない。一方、議員また市民として、「行政に伝わるべき重要な情報」を得ていないとも限らない。そうした例もまた耳にする。災害時、玉石混交をひとまとめにして黙らせることがよいことかどうか。
「玉石」を自分たちで選別できれば、「黙っている」を規範にしなくてもよくなる。端的にいえば、「議会として」集約、判断できれば、ということになる。しかし多くの議会でそれは簡単ではない。誰がどのように議員の意見を集約し、選別するか。順当にいえば、まず議長のリーダーシップが期待される。しかしもちろん、その集約・選別を議長の職責また職権とする制度がなければ、つまり、議長もまたひとりの議員であるから、あらかじめ議長の職にあるものが行うことを規定しておかなければ、その行動は担保されない。
行政と議会という自治体の政府機構が災害に対応するとき、議長の役割は、議員の属人性を包摂して「議会として」を担い、議員から行政へ、行政から議員への情報の流通を「議会として」行うカナメの役となる。いかに重要かは容易に理解できる。逆にそのカナメ役に議長がなれず、さらに望み薄だが他の議員もなれない場合、「議会として」まとまれない議会となる。そうなると、「黙っている」しかできることはなくなる。さらに付け加えれば、「いつまで黙っているか」も「議会として」の意思を形成できるかによる。「スピーディな対応」をしたい行政は、いつまででも黙っていてほしいと思うかもしれない。それが、市民にとってよい対応なのかどうかは、もちろん保障はない。
災害時の議会対応について、「議会は何をしているか」という叱責を受けたという声も聞く。多くの議員はそれぞれの「現場」で、一生懸命対応している。ただし、「議員として」。「議会として」はそれと同一ではなく、「議会として」対応するためには、議員の意思を集約して「議会として」のそれに定位させる必要がある。議員の意思を集約して「議会として」決め、「議会として」振る舞う。それを「議会自治」と呼んでおこう。「議会自治」の力が強ければ、「議会として」考え、振る舞うことができる。できなければ、議員の集合体にとどまる。議会の災害対応は、議員の属人性と、それを議会として集約する「議会自治」のシクミと能力によることになる。実はこれは災害時に限ったことではないが、災害時にはルーティンが機能しない分、如実になる。